シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

「人のお役に立つ」はしばらく放置

「人のお役に立つ」は、よく分からないので、とりあえずは置いておくことにしました。

自分はまだそういうことを考える段階には来ていない気がするからです。

無意識の本音とすんなり繋がれる・・・そういうレベルではなく、単に、「この人なんか合わないな~」とか、「これ、好きじゃない」とか、「すごく好きだからもう少し知りたい」とか・・・おそらく多くの人にとっては当たり前に感知できる自分の感覚とまだ上手く繋がっていないから、己の欲望充足だけを考えて行動する感覚も、自分以外の存在の為にもなることが出来たら嬉しい・幸せに近づく感覚も、分からないのに、それを目指しても、無理がある気がします。

自分が泳げるのかも分からない人が、「遠泳であの島まで行こう」と思っても、「まずは泳げるのか、どのくらいの距離なら泳げるのかを把握してからでしょ」なのと同じ。

信田さよ子さんの本に、養育者(多くの場合親)に、感覚を奪われて育った人は、「痛いって言って(感じて)いいんでしょうか?」と言うとありました。大人になっても自分の感覚が分からないままのことも多いそうですが、私にもそれがまだまだ沢山あります。

人は、幼い時に、「転んでひざを擦りむいた」時、「ケガしたところが痛いね」「転んでびっくりしたね」など、その時の感情や感覚に言葉を与えられて、「これを”痛い”って呼ぶんだ。”びっくりした”って表現するんだ」と学んで、自分の感情や感覚に秩序が出来て、世界を把握していくのに、「そんなの痛くない」「その程度で泣くんじゃない」など否定されると、確かにあるこの感情・感覚は何?になってしまうそうです。
この不快な感覚は「感じてはいけないのに自分が欠陥品だから湧いているものなの?私がおかしいの?本当は何もないのにあるように感じているの?」と混乱していく。
これが続けば、自分の感覚も気持ちも分からなくなって(認知できなくなって)、生きづらさが募っていく。


かんたんに言えば、「小学校入学前にクリアしているはずの課題が終わっていない」のです。

人さまのお役に立つとか、人と繋がるとか、そういうことは、まだ先の話だな~と気づきました。

いずれこういうことを考えられる状態になったらいいな、ってことで、とりあえず保留。