もともと「結果は後からついてくる」的なものだし。
グリーフワークについての本を読んでいたら、性格と悲嘆の受け止め方の分類があり、自分が当てはまると思ったのは
内向的な性格 「求道型」
亡くなったという事実は変えられなくても、死によって逆に見えてくるものに注目し、価値観の見直し、考え方の転換を通して、悲しみの受け止め方を変えて行く
外交的な性格だと、悲しみをバネにして、社会を変革する力を引き出したり、同じような悲しみを持った人を援助するなど、社会貢献への動機づけへと昇華する人も。
「人のお役に立つ」と分かりやすいのは、社会活動に転換するほうだよな~。
内向きの思索も、”そういう見方もあるのか”と誰かの刺激になることはあるでしょうが、見えにくい。
本にでもなれば違うかも、ですが。
毒親絡みのことでも、自分でぐるぐる考え続けて、昔よりは物事を深く理解できるようになったり、俯瞰する視点が持てる瞬間が増えたかな?と思えることもありますが、すごく個人的な体験・感想です。
はたらから見ていて、「自分も同じ悩みがあるから話してみたい」という気持ちが湧く人はほとんどいないでしょう。
宣伝してないし(笑) このブログのコメント欄すら閉じてるし。
社会に向かって働きかけるタイプの人は目につきやすいので、自分がそういう性格だったら参考例も見つけやすいんだろうな。
内向的な性格の人は、ひっそりどこかで思索に耽っていて、その過程が外に出ることも少ないし、出ても、ネット上で静かに文章が漂っている位のことが多いから、「先達」を見つけにくいです。
それで、どうしても目に付く、自分の性格とは合わない形(外交的)での「人のお役に立つ」を考えてしまい、「私には無理っぽい。」と思い込んでいたようです。
私が「人のお役に立つ」を考えるきっかけになった人の主張は、「自分がやりたいことが分からなくて困っているなら、”人の役に立つこと”やれば?」「一般的に、人の役に立つことをやった方が充実感あるよ」でした。
人の役に立っていなければやる意味が低いというわけではない。
まぁ、ゆるゆる暮らしていて、最終的に、「そういえば、これが誰かの役に立っていたな」というものが一つでも出てきて、自分が満足出来たらラッキー、くらいの感じでいいのかも。
自分の内にあるものを、社会変革に向けたい性格じゃないから、自分に合わないことを己に無理強いするのだけは止めよう。