シンプルライフへの遠い道

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「生存許可証がない」件を別の目線で考える

「死なないでいる理由」という本の一節

そういう「存在の世話」を、いかなる条件や留保もつけずにしてもらった経験が、将来じぶんがどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところで人への〈信頼〉を失わないでいさせてくれる。そういう人生への肯定感情がなければ、人は苦しみが堆積するなかで、最終的に、死なないでいる理由を持ちえないだろうとおもわれる。

著者の言う「人生への肯定感情」が私にはありません。「死なないでいる理由」がありません。
わんこがいた頃は、わんこが「死なないでいる理由」でした。
今は、「死なないでいる理由」とまで言えるものはありません。
積極的に死にたいとも思っていませんが、お迎えが来たら、(苦しくないなら)それはそれでOKだ、とも思っています。
死を前にして死にたくない!と叫ぶ気持ちは少しわかりますが、元気な時から、「死にたくない!」と叫んでいられる人が心底羨ましいです。何がそんなに”生きること”を心地よい状態として思わせているんだろう?

表面的な人への信頼感や、自分は大丈夫だという感覚は少しずつ育ってはいますが、根にある「生存許可証がない感覚」は変わらずそこにあります。
これまで他人への妄想交じりの恐怖などにマスキングされて見えていなかった分、逆にはっきり見えすぎて、「一生変わらないんじゃないの、これは」な静かな絶望感が拡がっています。 


別の目線で見ると、よくここまで踏みとどまって生きてきたなぁ、とも思います。
「本当のぎりぎりの場面で、助けてくれる誰かがいるという感覚がない」話をしたら、「それでよくここまで生きてきましたね」と言われたことがありましたが、「人生への肯定感情」「生存許可証」がある人からすると、それなしに生きるのは辛すぎると思うようです。まぁ、本当に辛い時もあるんですけど。気づいたときにはこの状態で、他を知らないから生きていられるのかもしれません。

「人生への肯定感情」がある人の感覚は私には分かりません。
その感覚が今急に身についたら、それに慣れて、それが当たり前になるまでの移行期間中は、「あぁ、人生楽勝だ」と思うんだろうな~、と想像しています。
全てがうまく行かず、野垂れ死に寸前でその辺に倒れたとしても、そういう時に、「大丈夫ですか?」と声をかけてくれる人の一人くらいはいるだろうと”考える”んじゃなくて、皮膚感覚がそう言っている、ってことなんですよね? 多分。 
空席があれば、救命艇に乗せてもらえると無邪気に信じていられるってこと…ですよね? 多分。

大抵の事には果敢にチャレンジして、結果が出てから考えればいい、と思えそうです。
実際にどうなのかは、私には全く分かりませんが。



この想像が半分でも当たっているなら、何とか日々生きているだけでも、頑張っているなぁ、自分、と思っていいのかもしれない。