シンプルライフへの遠い道

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人は変われる 高橋和巳著

副題:[大人のこころ]のターニングポイント

先日読んだ「消えたい」が私にとっては、凄く新しい知見をくれたので、同じ著者の本を読んでみました。
著者の結論は、「大人になっても変わることが出来る」

この本では、心の階層を
感覚-欲求-知性-感情・感性-主観性(自我) の5層で説明しています。

前の階層段階にいる時は、その後の階層から物事を見ることはできないけれど、後の階層に到達した後は、自在に前の階層状態に戻って物事を見たり、経験したりできる。

「頭では分かっていても、どうしても気持ちがついて行かない」と感じる時、知性レベルでは理解していても、感情・感性レベルでは受け入れられていない状態、だそうです。そういう意味での「感情・感性」。
この層までは、多くの大人は経験している。

主観性(自我)の層にたどり着くには、3つの能力が必要。
・自分から離れる能力(客観視し、自分の欠点も認められるようになる)
・絶望することが出来る能力(人生にはコントロール不能なこともあると真に受け入れる)
・純粋性を感じることが出来る能力
   ・・・この部分は、私にはわかったような、分からないような、でした。

  心の純粋性とは 以前よりも自分がしっくりいくという感覚
        もやもやとしたものに名前がついて、スッキリ整理がついた感じに近い?

  心の純粋性とは この考えはどこか矛盾していると感じる直感
        これは感じとして馴染みがあります。
        一見説明できているようで、何かおかしな、合わない部分が残っている感じかな?

  心の純粋性とは、より自分に近づいているという感性
        自分の内側を掘っているときに、答えにはたどり着けていないけれど、
        掘る方向は合っているな、と感じているときの予感めいたもの…?

  心の純粋性とは、主観性への郷愁である
        これは正直掴めていません。
        私の感覚では、「己の無意識(日ごろ意識できない自分の本音・根幹)へのアクセス欲求」
        が一番近いのかな。


周囲の(自分にとって)価値ある人から期待されることによって決められた自分(様々な役割のペルソナの集合体)から、もっと自身の内的なところから生まれる目的や進むべき方向によって決まってくる自分になる-客観性から主観性への相転移が起こる-これを「成熟」と言うようです。

う~ん、正直、どれだけの人が「成熟」しているんだろう?
このレベルは、それなりの内省や、内省を促す何か(多くの場合、逃れたくてたまらない苦痛、”底尽き”を促すほどのもの)が必要なのでしょう。


主観性を獲得すると、こういうことが起こるそうです。
・客観視能力の向上
   感情が湧いたとき、それがどこからやってきて、どう変化しているかも静かに感じる能力
   発言も、「家族はこんな風にひどい」から、「私は自分の家族をこんな風に感じる」という
   自分の立場からの発言が増えていく。

・自立性・独立性の獲得
   他人との比較の上に生まれる自信ではなく、自己の単一性・連続性・絶対性の自覚に基づく
   自己に対する絶対的な自信が生まれる。
   判断の是非自体と、判断した自分自身を冷静に分けられるので、
   判断を変えることもスムーズになる。反省はするが、自己否定はしない・・・かな?

・自由であることの自覚
   これまで自分を縛っていたものから解放された感覚、自分の人生に対して自由だという確信

・身体機能の変化
   快眠・快食・快便などの感覚を知覚できる

・人との交流を楽しむ
   人生の多様性を受け入れるのと同時に、自分の価値を守ろうとする。

  私の感覚で言うと、「自他の境界がはっきりついたからこそ、自分とは違う他者の在り様を
  尊重できるようになるし、自分の領域を守る力を得る。その上での”他者との交流”は
  精神的負荷が下がり、楽しめる」な感じかな?


著者は主観性を獲得した状態をこういう風にも説明しています。

どうせ変えられないのなら、私はもう何をやってもいいのだ、と悟った私は運命から自由になる。
自由になった私は、自分を好きなように変えはじめる。

これはしっくりきました。


「消えたい」では、社会的存在感をしっかりさせるには、「感情の共有」と「規範の共有」が必要だとありました。が、被虐待者の私には、「感情の共有」が足りな過ぎて、不安定です。
これまで、感情を共有して、「快」を味わいたいから何かする、じゃなかったな・・・排斥されないため、死なないために周りに合わせていただけだから、生きるのが苦痛だったんだな、と別の視点で再自覚出来ました。
どう考えても、快の"感情の共有感覚"を得るのは、私には難しい。子供時代に、それを感じるレセプターが育たたなかったから、その「素」をいくら得ても、感じることが出来ないから。

じゃあどうすればいい?

になっていましたが、今の私でもそこそこ「快」を得てやっていくには、独りよがり、閉じた自分とも違う、己によって立つ自分でいることなのかもしれません。
感情の共有を必要としない「快」のある、安定した状態。
それが、この本で言う「主観性を獲得した自分」なのかはまだ分かりませんが、少なくとも、より近い気はします。