シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

嘲弄

「夜と霧」という本を読んでいます。(まだななめ読み状態)
ユダヤ強制収容所に入れられていた精神科医の体験記録。
 
20年以上前に読んだのですが、細かいことはほとんど忘れていました。
最近NHKで取り上げられていたので、思い出して、再読。
 
この中で、嘲弄についてのくだりがありました。
囚人たちは理不尽な暴力などにさらされていて、ちょっとしたことが死につながります。
そんな状況でも、嘲弄には我慢ならず言い返したりする・・・結果、ぼろぼろに殴られたりする。
死と隣り合わせの極限状態でも、人は嘲られることには耐えがたいものを感じるんだな~。
 
じゃあ、私が実家でさらされ続けていたあの嘲笑はどんな重さで私に悪影響を残しているんだろう?
 
嘲りは、私の育ちの中で、常に”そこにあるもの”でした。
 
こんなことも知らないのか、
こんなことも出来ないのか、
(子供なので、考えが浅くて当たり前なのに)こういう風に狭い視点で考えていたんだろう、
こんなばかばかしいことに興味を持っているのか?
○○してもらえる(買ってもらえる)わけもないのに、期待していただろう?
 
まぁ、こんな感じ。
決めつけて、あざ笑う。
反論しても、余計バカにされるだけ。
親だけでなく、兄弟も一緒になって嘲りました。
家庭内に嘲りが蔓延していたので、弱みを見せれば私も兄弟を嘲っていました。
でも、末っ子の私が一番嘲られていた気がします。
家族の中で、一番体力も能力も思考力も劣っていましたから。
 
嘲る理由も、今思えば言いがかり。
 
どれくらいの頻度だったかははっきりしません。
でも、私の自己肯定感を打ち砕き、自分はみじめな状態がお似合いなんだと思うようになった気がします。
こう思い込んでいることにやっと気付けたのは、ここ数年のことです。
 
 
こうやって思い返すと、「腹の中に出来物が出来たくらいで大騒ぎして(バカじゃないの?)。」と父親に言い返したくなります。
(逆の立場なら、言葉は違っても、こういうことを言う人です)
自分の尊厳のために、それは止めておきますが・・・。
 
被害妄想にならないように・・・と常々思ってはいますが、
実は、自分がされたことの重さを軽く見すぎていることも多いのかもしれません。