シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

自分の中の”基準認知”を阻害するもの

今、ACな自分の中で厄介だな、と感じているのは、自分の中の”基準認知”を阻害するもの。
自分がどういう基準を持っているかがはっきりしないので、その基準を目指すのか、基準を変更するのかも見えない→方針が立たない→停滞感が募る なのです。
そもそも、「基準」が育っていないのかもしれませんけど。

毒親と暮らして、自分の気持ちや感覚を認知しにくくなってしまった延長だと思います。
毒親に嘲られないようにするには、「完璧でいなくてはならない」と思っているのに、その「完璧とはどういう状態か」が分からない。
成績のように単純に数値で見えるものならいいですが、世の殆どのことは違いますから。

実際には彼らは嘲ることが目的なので、私が完璧だったとしても嘲られ、貶められるので、「こうすれば完璧=嘲られない安心状態」が掴めないのは当たり前。そんなものは存在しないのだから。

最近強くこれを感じたのが、「人の役に立つことってどんなこと?」と考えた時、自分の中にもイメージがあることは何となくわかるのに、その姿を捕らえられなかった時。
「あの辺に答えがあるのかな?」と行ってみても、ないことが続いて、疲れてがっくりきました。


これは日常生活の隅々に及んでいて、自己肯定感を持ちにくくしています。

例えば、知り合いを”ちょっと一緒におしゃべりしながら食事でも”と家に呼んだとき、どうもてなせば自分にOKが出せるのか、分かりません。
「今のままではいけない、頑張って何とかしないといけない!!」と焦りまくるだけで、現実的な具体案が浮かばない。
高級ホテルのように隅々までピカピカに掃除してあり、見栄えのいいインテリアの部屋に案内出来て、一から手作りした、こじゃれた小料理屋で出るような”おばんさい”をセンス良く盛り付けて出せれば合格だろう・・・くらいは分かりますけど、それは現実的じゃない。

スーパーで買った袋菓子を皿に盛り合わせて出すのはOKなのか?
デパ地下で和菓子・洋菓子を取り揃えて買っておかなくてはダメなのか?

「我が家のレシピで作ったパスタ」を出すのは失礼?
「ピザを取るのはダメ?」

勿論、呼ぶ相手と、その目的によりますけど。
目上の人を何かのお礼で呼ぶなら、それなりにちゃんとしたものを用意した方がいいだろうし、友達とのおしゃべりが目的なら、”あるもの”でも構わないんじゃなかろうか。

Aさんの家に行ったときはこうだった。
Bさんはああだった。
  少ない経験の記憶の糸を辿って必死で探ってみたり。

・・・こうやっていちいち細かく考えて、「まぁ、これなら大丈夫かな」という姿が見えても、甚だ心もとないので、人を呼びたくなくなります。相手が「扱いが酷い」と怒ったり、「あなたはこの程度しかできないの?」と嘲ったりはしないと分かってはいるのですが、根に染みついた”嘲られる恐怖”はかなり強固です。
仮に馬鹿にされたからってなんぼのもんじゃ、というほど開き直れてはいません。


まぁ、一事が万事この調子。

日ごろの家での夕食でも同じだし、
どの程度掃除をしておくのかとかいう、「好きにすればいい」ことでさえ、「この位でOKかな」と思えなくて居心地も悪いし、自分がダメ主婦な気がしています。
冷静に見渡すと、そんなにひどくはないようだ、とは分かるのですが。

細かいこと一つ一つの基準が欲しいのではなく、「これでいいかな?」と思った時、すぐに自分の中に答え(答えがない、という答えにしても)が見つかる状態=自分にスムーズにアクセスできる状態になりたい。
どうすればいいのか・・・分かりません。

これまでの試行錯誤と同じく、気になったことについては自問自答を繰り返し、実際にやってみたりして、
「この件の落としどころはこの辺らしい」と掴んでいくしかないんだろうな・・・。あぁ、面倒くさい。

面倒くさくても、「基準が掴めない自分」が居心地が悪いなら、試行錯誤するしかないし、やろうかな、と思うと同時に、こんな厄介なものを私に植え付けておきながら、「自分は立派な親だ」と思って、絶縁されたことすら認識していない彼らに、凝りもせず猛烈な嫌悪感が湧くことも嫌になるのでした・・・。
どんなに嫌っても、向こうは全く認識しないから。
あまりに見事で、脳内ネットワークがどうなっているのか知りたいくらいです。

まぁ、愚痴を言っても仕方ないから、手探りを続けよう。