シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

貧困と虐待

先日貧困(生活保護)についての番組を見ました。
 
この中で、生活保護受給中で就職活動をしている20代男性や、生活保護を受けられるようになって、収入面は安定したけれど、人とのつながりが薄れてしまった人などが出てきました。
 
虐待を受けて育ったため、人と接するのが苦手で、余計孤立したり、仕事を続けるのが難しかったりする人たち。(ちらと虐待を受けていたことが紹介された人たちもいました)
 
 「十分働くことが出来る健康状態なのに、生保の若い人たち」のうち、
 虐待の傷跡に苦しんでいる人はどのくらいいるのだろう? 
 
私には、「甘えている」とか、「気合が足りない」とはとても思えませんでした。
必死で頑張ろうとしても、限界が”ここ”なのです。
 
私はたまたま結婚して、夫に養ってもらえているから、
状況が許して資格をとれたので、短時間パートで済んでいるから、不具合が表に出ていないだけです。
 
この番組は、同僚の性格がどうの、仕事の厳しさがどうの、以前に、フルタイムで働くだけの精神力はない(一人で自滅緊張して、疲れ果てて、生きる苦痛が倍増していくから)と分かっているので、「もう一人の自分たち」を見る気持ちでした。
 
この番組を見て、
子供の虐待って、親が子供の心の手足を食べるようなものだと思いました。
 
子供は、まずは自分の手足の一部が欠けているせいで、うまく動けないことに気付くところから始めなくてはいけません。
親が勝手に喰らったのに、子供がうまく動けないことを「自己責任」にされるのが今の日本です。
 
自分に欠けているものに気付いたら、傷の手当てをするなり、義足などを探すなりしなくてはいけません。
でも、この手当も一人ではなかなかうまくいかず失敗の繰り返し。
  そうこうしているうちに傷から壊死して、心が死んでしまう人もいます。
 
何とか動けるようになっても、傷跡が痛んだり、傷のない人と同じようには走れなかったりします。
親が自分の心の安定のために、子供の心を喰らったせいでついた傷は、一生ついて回ります。
中にはこの傷をばねに、大きく羽ばたく人もいますが、そうでない大多数の声なき人たちの苦しみは、気づかれることもほとんどありません。
 
 
こう考えてみると、私が自分の親との距離の取り方であれこれ考えるのもばからしくなりました。
 
「あなたは自分の手足を勝手に喰らった人たちの都合や気持ちを
いまだに考えるのですか?」
 
彼らは近づけば、また私を食べようとするでしょう。
私は私の道を行こう。