13 ACは衝動的である。他の行動が可能であると考えずに
ひとつのことに自らを閉じこめる
衝動的??
どちらかというと、慎重になりすぎて身動き取れない方だよ
とも思ったのですが、
「他の行動が可能であると考えずにひとつのことに自らを閉じこめる 」
こちらは当てはまりまくり~
何か困っている人がいる(例えば同僚)
反射的に、自分が全面的にサポートして、事態を収拾させねば!と
責任丸抱えで対処開始!
ちょっと立ち止まると、
それはその同僚の責任範囲で、私の援助なしで本人が処理できる仕事
(同僚が”ちょっと面倒だな~”と思っている程度の”困った”だった)
なんてことはしょっちゅうでした。
最近は、職場に関しては、職場への忠誠心がないので、日頃「お互い様で助けてくれる人」と思っていない相手が困っていようが、知らんぷりしています。
勿論、その人が、正式に「手伝ってください。助けてください。相談に乗ってください」と頼んでくれば、快く手を貸しますが、単に何とかして欲しいと匂わせている段階では、気付かない振りして無視。
反射的に、不必要に責任を背負い込もうとしたり、
全体の状況を見ずに判断したり、
もう少し自分が楽できる選択肢もあるのに、わざわざ「完全」を
目指して苦労の道を選び、結局完成できなかったり・・・
たくさんあります。
基本的に、自分の苦労や努力は価値がないと思い込んでいるせいかな。
表現が難しいですが、こなき爺世代の夫達は、家事=無償で処理されているもの、で外注すればかなりお金がかかるし、それを無償でやっている主婦の働きには大きな価値がある、とは思っていないようです。
だから、手間がかかる事務処理でも
「お前、やっとけ」
で終わった気に平気でなるし、「やってくれてありがとう」もない。
そんな爺の感覚が伝染している・・・(と、こう書いていて気付きました!)
自分自身の手間隙苦労を、そういう感覚で捉えているのがわかってきました。
別の感覚にスイッチが入っている時は、
「家事は大変! 私は頑張って働いているぞー」
と思うのですが、何かをする時の手間隙を、それの必要経費にカウントしていないことが多いようです。
あることを処理するのに、手間隙かければ、その分体も気持ちも疲れて、ほかにまわすエネルギーがなくなる・・・ことが、それをどう処理するか判断する時には考えていないようなんです。
自分でやれば良いとか、手間がかかって大変な方法を平気で選んだりする。
それだけ自分を軽く扱っている?!
私の場合は、自分を大事にする(過労を防ぐ)のは大切なのに・・・
思い込みのまま、反射的にどうするか決めるのではなく、一度立ち止まるようにしよう!