副題:地下茎コスモポリタニズムの出現
50代のひきこもり当事者の著者は、日本以外の国のひきこもりの人たちともつながりつつ、GHO(世界ひきこもり機構)を立ち上げて活動しているそうです。
この本を最初に見たとき、「ひきこもりの世界(当事者がどういう暮らしをして、どういうことを考えているか)」じゃなくて、「世界のひきこもり(他国のひきこもりの紹介)」なんだ・・・と注意をひきました。
ひきこもりと言っても、一人一人、考えも、ひきこもりになった状況も、経済状況・生活状態も、今後こうありたいという希望も違うわけで、一括りに論じる乱暴さを改めて認識しました。
自分が、「専業主婦=ヒマ」と一括りにされることに抵抗があるのと似た抵抗感をひきこもりの人が持っている場合もあって、親近感がわきました。私の場合、たまたま「主婦」と言える状態なだけで、精神的にはひきこもりですから・・・今は、ひきこもりでい続けようと思っています。社会出て金銭労働や、何か活動をしようという気はないです(趣味を除く)。
何人ものひきこもり当事者の言葉を読んで思ったのが、ひきこもりになっている人たちは、家族関係(生育状況)に歪んだ抑圧や虐待がある場合が多いな・・・ということ。もちろん全員がそうだというわけではありませんが、統計を取ったら有意差出る感じ。
もう一つは、深く考えている人が多いな、ということ。
これは、ひきこもりは本人が自分が社会の少数派だと意識せざるを得ないので考えるようになるのと、この本に出ている人たちは、ひきこもりの中でも、著者とネット上で知り合う行動をとっていたり(他のひきこもりについて情報を集めようとしている)、語り合うことを了承している「考えなどを言語化するのがやぶさかではない人たち」だからだとは思いますが。
人間社会を動物の群れと考えても、群れに適応できない個体も個性としているわけで、ひきこもりの人たちは、有史以来いたように思います。
「変えようとしちゃいけない。変えようとするときに邪魔になっているものに、社会からの後ろ盾を与えさせない、ってことに尽きる。一番大切なのは、お前をひきこもらせているものと調和するってことなんだ」
カメルーンの元ひきこもり アルメル・エトゥンディ
著者 ぼそっと池井多さんの言葉で気になるものがいくつもありました。
ひきこもりの歳月は、私が私になるために必要だった。
人生においてお金より時間を取った。
ひきこもりとは、成育歴やその他の影響によって、仕事にすがることでは自分の人生に意味があると感じられない人だと考えることもできる。
儒教では、以前は「孝慈」と言われていた。子どもが親に尽くす「孝」と親が子をいつくしむ「慈」はセットだった。
「ふつうの人」たちが活躍している地上の世界では、常識が幅を利かせ、正論が掲げられ、クールで手短な言葉が好まれる。「面倒くさいこと」は避けられ、人々はそれを跨いで通る。しかし正論は、人々に受け入れられやすいかわりに、本当はそんなことを考えていなくても、世間に通用している言葉を適当につなぎ合わせることで誰にでも言えてしまう。
それに比べて、ひきこもりたちが地下茎を通じて交信している言葉は、重く不器用で冗々しいことが多い。あえて「面倒くさいこと」の領域に分け入り、本当に自分が感じたり考えたりしていることを忠実に置き換えようとして、苦悶の果てに絞りだしている言葉である。それらは常識を覆し、正論にあらがう。
私はこれを「真論」と名づけてみた。真論はオーダーメイドなので、正論のように大量生産できない。また、世間で通用していないため、なかなか人々には受け入れてもらえない。
著者 ぼそっと池井多
「孝慈」:なんだ、私が親に対して思っていることがちゃんと儒教の教えにあるんじゃないか、と力が抜けました。