シンプルライフへの遠い道

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死の病と生の哲学 船木亨著

大腸がんになった哲学者が、「病人であること」や、生と死について考えたこと。

 

親しんできたかで捉え方もかなり違うんだな、ということを改めて感じました。著者は広く・深く考えるある意味プロ、ですが、臓器にはなじみがなかったせいか、”得体のしれないぐにゃぐにゃしたもの”と表現している箇所がありました。

私は実物はほとんど見たことがなくても、画像で見る機会があるせいか、臓器を見ても、得体のしれないもの、とは捉えないので、自分との違いを感じました。

別の分野ではもちろん逆もあるわけで、「経験したものをベースに考えることしかできない」というのはこういうことのようです。

 

患者の立場で、今の日本の医療制度の問題点も沢山指摘しています。その中には、すぐに改善できそうなこと(癌などの大きな病気の場合、その場で治療方針を決めるよう迫らない(時間を与える)とか)も沢山あって、こういうことが当事者の苦しみを増やすようです。・・・そういう”苦しみ”も含めて引き受ける以外ない立場になりたくないという意味で、大病したくない、です。

 

著者の論考が多岐に渡り、私には上手くまとめることが出来ないので、気になった言葉を集めておくことにします。

 

思考:常識として誰も疑っていないものを破壊することから何かを作り出すこと。試行する能力は、群れから抑圧され、排除されそうになる時に初めて出現する活動の一種。だから、そもそも群れの中で安泰である人が、どうして思考する必要があるでしょう。

この言葉で、これまでの疑問が一つ解決しました。

自分が細かいことをぐるぐる考えるのが好きなのは自覚していますが、他人が簡単に内面を私に見せないであろうことを差し引いて想像しても、”思考していない人”が多い気がしていました。それに良いも悪いもないのですが、日頃それだと、何か人生の一大事や、自分の生死の問題にぶつかった時に、精神のバランスを崩さずにいられるんだろうか?(揺れはあっても崩れない人が多いようにも感じています)という疑問が。

乱暴に言い捨ててしまうなら、「世の多数派でいる人たちは、考える必要性がない」ということのようです。なるほど。

私も自分がACだと自覚するまでは、考える必要性が身に迫ってきた記憶があまりないのですが、ああいう感覚で一生過ごせる人たちが大勢いるってことらしい、と妙に納得です。

 

確率論的思考:情報は情報としてペンディング(保留)しておく思考法。良い経過を辿っても安心せず、悪い経過を辿っても希望を捨てないでおいて、他の情報と縒り合わせていく思考法。

必要なときにはこのように考えたいと思いながらも難しさも痛感しています。この思考法は、高度で難しいそうです。少し慰められました。

 

後悔しない生き方:1.後悔しないよう準備をしっかりする。

         2.後悔することを放棄する。

私は準備の方に重点を置き過ぎているかも、と感じました。これからの老いをしなやかに生きるには、両方必要な気がします。

 

愛するということは、単なる思いやりとか、余力のある人がそうでない人を手助けする程度のことではない。助けが呼ばれれば、何もできなくても、自分が苦しくなるような状況でも、今やっていることを放り出して駆けつけるといったことなので、数名分しか可能ではないと思う。

 

子供のままで大人の仮面をかぶっただけの人たち(周囲の人たちが自分に配慮し、支援してくれるはずだという前提を捨てられない)と、真に大人になった人たちがいる。

おとなからは子どもが何であるかは分かりますが、子どものままである人には、おとなであることがどういうことかが分かりません。

私の親は、子どものままの人たち、のようです。父親が、私に母親代わりをさせようとしている(無条件に自分を愛し、支持し、健康や幸せを願って助力してくれる存在)と感じたことがありました。

じゃあ、自分がおとなかというと・・・歪んでいるので、「誰も支援してくれない」と思い込んでいる面がありますし・・・まぁ、一応大人になれたと思いたい(笑)

 

 

あれこれ想像することはできても、当事者にならなければ分からないこと、真に考えることが出来ないことが沢山ある、ということはこの本でもよくわかりました。