シンプルライフへの遠い道

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いつも「時間がない」あなたに センディル・ムッライナタン、エルダー・シャフィール著

副題:欠乏の行動経済学

 

時間にしろ、お金にしろ、人との交流にしろ、何かが欠乏しているとき、人はどういう状態になっていて、どういう行動・選択をしがちなのか、というお話&その対応法。

そうだよね!!と思うことが山盛りで、納得しきりの一冊でした。

 

自分の言葉も加えて、自分宛にまとめるとこんな感じ。

 

処理能力(認知能力+実行制御力)は有限で、気がかりな欠乏があると、無意識のうちに処理能力の一部がそちらに取られ、他のことに充てられる能力(有効能力)が減る。同じ人でも、欠乏に気を取られている時はIQが下がる。(「平均」と「知的障害との境界線」ほどの差が出る)

欠乏すると、他を全て脇にやって集中できるが、それには「トンネリング」という代償を伴う。今月の生活費の工面に集中して、将来の年金の掛け金を払わないとか、子供の学費貯金に手を付けるとか…長い目で見ると”良い選択”とは言えないこともしてしまいがち。

お金で考えると、スラック(ゆとり)があれば、トレードオフを考えずに買えるし(この服を買ったら、子供の給食費が払えなくなるかも?などと心配しなくていい)、買い物に失敗しても心理的ダメージが小さい。これは時間などのほかの資源についても言える。

「人の豊かさは気にしないでいられるものの数に比例する」

                    ヘンリー・デイヴィット・ソロー

欠乏すると目の前の問題解決にだけ集中してしまい、「重要だが緊急ではないこと」をやらないことになる。結果、「毎日ちょこっと片付ける」×日数=片づけ総時間 より、「まとめて片付ける」ことにたくさんの時間とエネルギーを取られる、ようなことになる。orいつまでも借金から抜け出せない、気づいたら不摂生が主な原因で病気になっていた、とか。

欠乏が切迫していると、ジャグリングを起こす。借金の自転車操業になったり。その時、根本解決の方法を探ったり、他の手立てを考える余力はない。

たまに解決に向かって動き出しても、スラック(ゆとり)がないため、ちょっとした突発事項(家族の急病で医療費がかかったとか、働き続ける(仕事)に絶対に必要な車が故障して修理代がかかったとか)で、元の木阿弥になりがち。

欠乏に処理能力を奪われていることもあり、いつまでたっても利子を払い、上手なお金の使い方にならないため、常に本来持てるお金よりも自由になる資金が少なくなる。豊かな人も先延ばしにし、浪費するが、スラックがあるのでダメージが少ない。

 

日常生活では、処理能力に負荷がかかった時のために備えておこう。

食事に気を配れなくなった時のために、健康的な保存食を確保。

老後資金についてふと考えたときに、遺言を書く(せめて手配をする)

処理能力に負荷がかからないよう、シンプルにする。休息時間を確保して回復をはかる。

 

身につまされたのは、孤独な人がデートに行くと、失敗を恐れるあまりうまくいかないことが多い。自分の孤独(欠乏)にとらわれ、集中しすぎているから。緊張して失敗する。

パート先でどうしても緊張しすぎて自滅していた私のこと…?

同僚からドン引きされて孤立したりはなかったですが、仲良くもなれず。相手を少しでも不快にさせたら嫌われ、仕事に支障が出るという歪んだ思い込みは、自覚はできても解消できないままでした。受け入れてもらいたいという気持ちが強すぎるんですよね…。

 

多くのことを「自分の工夫が足りない」とか、「気にしすぎ」と思ってしまう悪癖があるのですが、そうじゃないんだな~と納得させてくれる話もありました。

授業に支障が出るほどではないが、電車の音が聞こえる教室の子供たちの平均成績が低かった。音が聞こえないようにしたら成績が上がった。・・・という話。

何か気をそぐものがあると、集中できず、投入できる処理能力が減るのは、その人のやり方の問題などではないよな~。立ち止まって考えれば、当たり前のことなのですが。

 

パートに取られる処理能力が多すぎて、他が回らなくなってしまい仕事を辞めたのですが、私には正しい選択だったようです。余力(スラック)が十分になければ、工夫で急場はしのげても、持続は難しく、その工夫を続けることにまた処理能力を浪費する悪循環。

まだ締め切りが先だからとだらだらする癖を修正する方策を試し続けることは必要ですが、ベースに欠乏がないかのチェックも怠らない方がよいようです。