シンプルライフへの遠い道

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急に具合が悪くなる 宮野真生子/磯野真穂 著

哲学者:宮野真生子と、人類学者:磯野真穂 の往復書簡

往復書簡形式の本を読んだのは初めてです。なかなか新鮮でした。コミュニケーションって本来こうだよな、と、また”知り合いに格下げした元友人”のことを思い出してしまいました。やり取りの中で、新たな話題・論点が出てきて、それに対してのもう一方の見解が語られたり、話が飛んだり。

宮野さんは癌を患っており、医者に「急に具合が悪くなるかもしれない」と言われている。そんな宮野さんに磯野さんは往復書簡の話を持ち掛けられ、分野の違う二人のやり取りが続いていきます。

 

私の基本になっている「死ぬとき後悔するか?」という自問の答えを足掛かりに決断するやりかたに対して、これでいいの?という問いが生まれました。

「いつ死んでも悔いがないように」という言葉に宮野さんは欺瞞を感じている。それは、死が確実だからと言って、その未来だけから今を照らすやり方は、変化を見落とし、未来をまるっと見ることの大切さを忘れてしまうためじゃないか、と思っているから。

なるほど。

この自問は私にとっては大事なキーワードではあるけれど、直観も大事にしてみたり、流れに任せてみたりも織り交ぜたいな、と感じるようになりました。上手く言えませんが。後悔しそうだけど、なんとなくこっち!も、予想される後悔の内容にもよりますが、たまにはいいかも。限られたひな形にのっとって思考・決断していていると、それがなければ気づけた多くのことを見逃しかねないな・・・と。まぁ、決断すること自体他の可能性などを捨てることでもあるので、考えすぎない方がいいとは思いますが。

 

「決断疲れ」と「医療の自己決定」の話も、身につまされました。

特に命にかかわるような重大局面で、既に体調いまいちで認知資源が減っているときに、治療法とそのリスク、予想される結果などをいくつも説明され、選ばされるとか、正直、疲れる。”予想される結果”が重い(死ぬとか、重い障害が残るとか)ほど、疲れる。で、代替医療を選んだとして、それは責められるようなことなのかな・・・。以前は、責める側でしたが、徐々に、「いや、人によって、ベースの知識とか、認知資源量とか、そもそもその”議題”に振り向けている関心の度合いとか、人生でのこだわり、優先順位も違うから、一概に言えない」になっていますが、似たような話が出てきました。

 

何かには必ず原因があり、しかもそれは合理的判断によって避けられるという、現代社会の信念 ・・・私から見ると、殆ど「呪い」・・・の話も、そうだな、と大きく頷きました。

新型コロナ対応で特に思います。正しい判断(ベストな選択)ができるはずなのに、しなかったためにこうなった、だれの責任だ!な論調。相手(新型コロナ)は、どういうものかもわからない新しい病気だから、”合理的判断”は無理なんですが・・・(情報がなさすぎる)。

 

自分が他人との関わりを避けているので、こういう風に「私はこう思う。あなたは?」と言葉を交わして、新たな発見をしていくーこの人と関わらなかったら見ることが出来なかったであろう風景を一緒に眺めるーこういう関係はいいな、と思いました。

宮野さんが磯野さんに往復書簡を持ち掛けたのには確たるものがあったわけではなく、「この人なら」という”何となく”だったそうで、こういう言語化できない勘のようなもの、ご縁としか言いようのないものを大事にしたいし、それに気づけるように、人生の風通しを良くしておきたいと思いました。