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ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 帚木蓬生著

著者によると、ネガティブ・ケイパビリティとは、
       「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」
       「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることが出来る能力」

わんこロスだとは分かっているけど、次が見えてこない現在。
毒親との関係も、打つ手なし(というか、今は動く気なし)。
居心地が悪くても待つ時期だとは分かってはいても、どうにももどかしいです。そんな中、ネガティブ・ケイパビリティ凄く欲しい能力だと思い、どうすればその能力が身につくのかが書いてあるのだと思ってこの本を読みました。が、違いました。
ネガティブ・ケイパビリティの具体例、メリット、これが難しい理由(分かりたい脳の性質など)の解説でした。
よく考えると、この能力を身につけるには、「今はネガティブ・ケイパビリティが必要な局面だ」と自覚して、現場に踏みとどまる努力をする以外にないので、How toはあってなきが如し。
この本を読んで、ネガティブ・ケイパビリティの重要性は分かったので、宙ぶらりんに踏みとどまる努力を続けるモチベーションになりました。

医療、創造、教育、寛容などの場でのネガティブ・ケイパビリティの必要性やどう力を発揮するのかが書かれています。

私自身、すぐに答えを求めてしまい、待つのが大の苦手なのですが、周りの人と比べると、ネガティブ・ケイパビリティが発揮できている場面もあるな、と思いました。

この力がついた理由は・・・
夫実家 
 義母の死後、遺族(義父、義姉、義兄、夫)の中で、健常者は夫だけ。義父は認知症、義姉と義兄は精神障害者。三人には成年後見人さんを付けることになったのですが、義姉は受診拒否で、手続きに必要な診断書は手に入らず、義母の遺産相続もすぐには出来ませんでした。
義兄は十分な介護をする能力はないのに、「まだ大丈夫」と義父の施設入所を拒否。
もう何だかな~な状態が数年続いたので、鍛えられました。何だかな~と思いながら、騒がず放置していましたが、結局は上手く収まりました。
放置すると悪化する時もありますが、打つ手なしの時は、時間が経って状況が変化するのを待てるなら待つ方がいいこともあることを体験で学びました。
目をそらす現実逃避ではなく、状況を把握した上で敢えて「待つ」を選ぶ、ということがポイントではありますが。

手芸教室
意外でしたが、この本の創造の章で、「いつも先生が言っていること」が書かれていました。
教室では、「ある部分まで実物を作ってみないと、次は見えてこない」といつも言われます。勿論、最初にイメージやデザインは決めて作り始めるのですが、途中でバランスを見たり、自分の好みが変わったり、色遣いやデザインとふと出会ったりして、変化していき、完成していく。
製作中は、最終完成予想図が見えない状態で作業を続けることになります。まぁ、これも楽しみの一つなのですが、宙ぶらりんには違いないです。




この本で印象に残ったのは、医療での「目薬(見守り)」。
精神科領域では病の一因のストレス源をどうにもできないとか、回復が難しいとか、そういう状況でも、だれか(医師)が一緒に状況を確認したり、「あなたが頑張っていることはちゃんとわかっていますよ」と確認することで、何とか持ちこたえて、事態の変化を待つことが出来たり、より良い精神状態で旅立って行けたりする。
寄り添う側にも、寄り添われる側にも、「ネガティブ・ケイパビリティ」が必要なわけです。
状態としては同じでも、一人で持ちこたえられるほど人間は強くない。目薬が必要なわけです。
わんこロスは、「目薬」になってくれるわんこ仲間や友人がいるけれど、毒親問題はそういう人を得るのが難しいのも、余計こじらせ、長期化する一因だろうと思います。


もう一つ印象に残ったのは、性急に答えを求めるが故の「視野狭窄
問題をすぐに解決しようとすれば、問題の枝は(場合によってはおおもとの幹)を切り捨てて、問題を単純化してしまう。すると、大事なところが見落とされたり、解決しても一部だったりして、問題が残ったままになることも。
問題を単純化したせいで、視野狭窄が起こり、理解や思考が深まらないので、解決策も浅いものにとどまりがち(根本解決からは遠のく)。
こうなると、単なるスタンスの違い、で片づけられません。


すぐに答えを求める「ポジティブ・ケイパビリティ」も必要ですが、こちらは十二分に身について、無意識の習性になっているので、今後は「ネガティブ・ケイパビリティ」に意識を向けていこうと思います。
はた目には、答えを出さない、ゆるゆる、ずるずるに見えるでしょうけど。
            ・・・昔はこのタイプは嫌いでしたが、今思えば、その人なりの知恵だったのかも。