シンプルライフへの遠い道

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権利を奪われた悲嘆

支援者向けの本を読んでいます。で、表現が固いのですが・・・。

死別の悲嘆の深さは、亡くなった相手との関係、亡くなり方、その時の残された人の状況(年齢や精神状態など)にも左右されるのは、以前読んだ本にもありましたし、ちょっと想像すれば思いつきます。

社会的に容認されない死別は悲嘆が重症化するというのは、考えの外でした。
ドカという人は、「権利を奪われた悲嘆」と称して、3種類に分類しているそうです。

認められない関係
  結婚外の愛情関係、同性愛関係、以前の配偶者または愛人、養子の実父母など

認められない喪失
  妊娠中絶、ペットの死認知症の悪化による家族の社会的心理的喪失など

・認められない悲嘆者
  子ども、高齢者、脳損傷者の死、老人ホームや精神病院、知的障碍者入所施設などでの死など

ペットの死も入っています。
自分の今の状態と照らし合わせてどうだろう・・・。
社会的引きこもり状態なので、「たかがペットのことで」などと心無いことを言う人との接触がないのは幸いです。
私にとっては、自分より先に逝くことが分かっていたというだけで、「一人娘の死」なのですが・・・残念ながら、この感覚を共有できる人はほとんどいません。

一年近くたつので、「次の子を迎えないの?」 とか、「遺骨はどうしたの?(いつまでも家に置いておくのはいかがなものかという空気感を漂わせながら・・・)」とか、このくらいのことは言われます。
「(わんこがいなくなったけど)再就職しないの?」とか。

どれも、「(ペットのことなんだし)そろそろ区切りがついているだろう・・・ついていていい頃だ。」という前提を感じて、微妙です。

「ペットロスは、次の子を迎えると癒される」言われると、「半分しか分かってないな」と思います。
確かに、新たに迎えれば、気持ちも変わるだろうし、癒されるだろうけど、新しく迎えた子を、亡くなったこの身代わりではなくて、その子として大事にできると思えないとダメなんだけどな・・・。そう思えるようになるまでに時間がかかる人もいるのです。
壊れた家電を買い替えるのとは違うのですよ。

これを、「社会的に認められていない」というのかは分かりませんが、仮に、死んだのが「人」だったら、「まだ喪の中にいる」ことが受け入れられやすいんだろうな~とは思います。
わんこが亡くなった直後より、今の方が、わんこの話をしにくいのもあります。
「いつまでもぐずぐず嘆いて」という反応を恐れるからです。


精神障害者だった義姉の死も、この「認められない悲嘆」だったな~。
パート先の人など関係が薄い人ほど、言わないけど(言葉にした無礼者も一人いましたが)ベースに、「厄介な存在が片付いてよかったね」がありましたからね・・・。
50代半ばで義姉は亡くなったのに、「あまりに早い死で、本人も無念だろう」とか、健常者が同じ年齢で亡くなったら言われたであろう言葉はどこにも見当たりませんでした。

私自身は・・・?
複雑でした。正直、義姉は義兄意外とコミュニケーションが取れなかったので、義兄が先に逝ったら大変だ、とは思っていました。そういう意味では、義姉には義兄より先に逝ってほしいと思っていたことになります。
あまりに長生きされて、残して逝くのもなぁ・・・とも思っていました。義姉に成年後見人さんがついてからは、この思いは極小になりましたけど。
義姉は親の虐待で心の病をこじらせたと私は思っていたので、義母が亡くなり、義父が施設に入ってやっと自由になったこの時間を楽しんでほしいとは思っていました。
勝手な言い草ですが、「私が見届けられる程度に程よく長生きしてください」と思っていました。
私は一応身内で関わりがあるから、こういう思いも仕方ないですが、全く関係のない人に、亡くなってまで差別されるのはな…と微妙な気持ちになったのを思い出します。



それにしても、人間はつくづく「社会的な動物」なのですね。
悲嘆はとても個人的なことなのに、「あなたがそんな風に嘆き悲しむのはもっともなことだ」と周囲に受容されていると感じることができないと、うまく気持ちの整理が出来ないとは・・・。