シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

哀しい気持ち

以前は、とにかく親に対して怒っていました。
 
子供が大事といいながら、実は自分達の都合が最優先。
母親は自分の不安解消を子供に押し付けていたし、
父親は自分にしか関心がない。
  一緒にいるのに、相手の気持ちが自分に全く向いていない虚しさは、
  言葉では表現できないです。
  露骨に無視されているのとも違います。
  相手が何かに夢中になっていて、こちらに関心を向ける余裕がないのとも違います。
  同じ部屋でぼんやり一緒にTVを見ていても、父親にとっては、自分以外はいないのも同然な
  のです。ただ、置物のように家族がそこに存在していることで、「一家団欒」と満足していた
  ようです。
  透明人間になって、認知されない・・・今思えば、そんな感じでした。
  必死になって語りかけていた相手をよ~く見たら、マネキンだった、そんな感じ?
 
 
今は、怒りは小さくなって、哀しいです。
 
ぐずって、親に優しくなだめられている子供を見ると、
    自分が、父親に「寝ぐずりよったい!」と吐き捨てるように言われ、
    放置されたことを思い出します。
 
誕生日やクリスマス前にわくわくしている子供の話を同僚などから聞くと、
    お祝いをして欲しい、プレゼントが欲しいと言うことすら出来ずに
    (わがままだとか、そんなものは必要ないはずだとか言われるだけで、
    希望が叶わないと分かっていたから)、気持ちがきゅーっと縮むのに
    耐えていた頃を思い出します。
 
 
親も完璧じゃないんだから、私が悲しく思い出すエピソードも、ある意味「仕方なかったのかな?」と思うこともあります。
我が家は、母親がお弁当を作って運動会を見に来てくれたけど、それが叶わず哀しかった人もいるでしょう。
参観日に親が来てくれなくて、寂しかった人もいるでしょう。
「哀しい思い出」がない人はいないだろうな~とは思います。
 
が、それが「仕方ない」範囲内なら、
10歳くらいの子供が、「生まれてきたくなかった。産んでくれなんて頼んでいない。」なんていわないでしょう。
 
「いい事ばかり起こってほしい、はムシがいいだろうから、いいことも、悪いことも、何も起こらず、人生終わればいい。」なんて、小学生が言うのかな?
 
居場所を求めて、日頃付き合いのない家の呼び鈴を押すのかな?
 
大人になって、児童虐待の本を読んで、「これは私のことだ!」とは思わないでしょう。
 
 
自分の子供時代は、何かが欠けていた。
  もっと親に優しく、かまってもらいたかった。
 
そういうことは自覚できるのですが、じゃあ、どういう状態が、
    「健全な親子関係なのか」
    「どのくらいは”仕方ない範囲”で、どのくらいが”愛情不足”なのか」
健全な家庭での生活の経験もないし、他の家庭を密着取材したこともなければ、出来もしないので、さっぱり分かりません。
 
これが分からないことも哀しいです。
わんこを大切にかわいがっていて、わんこも楽しそうにしていますが、
本当にわんこは”そこそこ幸せ”なのか、分からなくて哀しいです。
不幸なわんこだったら、散歩のときに、知らない人がわんこに声をかけたりはしないだろうな~
(声をかけたくなる雰囲気があるようです)とは思うのですが、でも、やっぱり分からないのです。
 
 
このまま親は変わらずに、永遠の別れになるんだろうな、と思うのも哀しいです。
 
それまで連絡を絶っていましたが、震災直後、こちらの無事を知らせました。
数日後、それまで向うからの連絡もなくなっていたのに、母親から、どうしてる?と留守電が入っていました。
その時の口調が、以前のままだったので、
「あぁ、やっぱり。一年以上付き合いを絶っても、何の効果もないんだ。」とがっかりしました。
 
こちらが一度でも連絡すれば、以前と全く同じように付き合えると思って、
以前と同じ言動(思いやりのない説教モード)に出るんだろうな、という予想が当たった瞬間でした。
 
こちらの状況を心配する、と言うより、
「こちらは元気でやっている。」という言葉しか聞く気がなく、ちょっとでも愚痴や弱音が入ろうものなら、
「被災地の人はもっと大変なんだから、そのくらい我慢せないかん。」と説教する、いつものスタンスが滲んでいるように感じました。
たとえ正しいことでも、余震も全くない安全地帯にいる人に、説教されたくありません。
これは私の被害妄想も入っていますが、でも、40年近くの付き合いです。
”変わってないな”という直感は、当たっていたと今も思っています。
 
 
 
いつまでも哀しみに浸っていても・・・ とも思いますが、でも、いいんです。
子供の時は、生き延びる為に、哀しむことすら出来ませんでした。
せめて今は、哀しいなら、好きなだけ哀しもう。
過去はやりなおせないのだから、せめて、好きなだけ哀しむことを自分に許そう。
子供時代の自分の為に、喪ったもの、得られなかったものを静かに偲んでいよう。