「丁度いい」が分かりません。
わんこと接していても、
わんこの拾い食い阻止のためにリードをぐっと引くのは、必要悪 と分かる。
じゃあ、今日はこの辺で家に向かってルート変更だよ、とリードを引っ張るのは?
わんこが嫌がっていたら、虐待なんですか? これも 必要悪なんですか?
この辺、微妙で分かりません。
(他の生き物に紐をつけて引っ張るのは、本当は良くないと思っています。傲慢。
安全や、人間社会でペットとして生活する為の「必要悪」なので、仕方なく、です。)
グレーゾーンをどう判断していいのか、どう加減していいのか、分からない。
自分の中に、「大体こんな感じだね~」という基準がない。
人間関係はもっと分かりません。
この人、何だかいやだな、という相手とどうやって距離を取ればいいのかも、難問。
私の気持ちを無視して理不尽を押し付け嘲笑する親を拒否する権利もなく、
好きだと思うことで何とか生き延びてきたので、
単純に、「いやだから、もう一歩下がって様子を見よう」を実行していいのかすら、 確信が持てない。(いいに決まっているのに)
「嫌なこと」は
1. 避ける。逃げる。
2. 我慢する。
3. 嫌なことがなくなるように働きかける。
大抵、この3つの選択肢があるはずなのですが、私の中には、「我慢する」しかなかった。
「逃げる」は、死を意味し、
「嫌なことがなくなるように働きかける」と、無視されるか、嘲笑されるか、怒られるのどれか。
新たな”嫌なこと”を生むリスクが高すぎる。
「我慢する」が一番無難。
今、「あれ?」と思った時、立ち止まり、「避けるのはあなたの権利です。」と確認して、やってみる。
「あれ?」と思った時、「あなたにはチャレンジする権利があります」と確認してやってみる。
のろのろ進みが続いています。
スムーズじゃないので、ストレスも多いです。
ちょっとしたことで、以前の「我慢・断念という選択肢しかない自分」に戻りそうになります。
こんな自分に凹む時もあります。
でも、こういう自分を責めるのだけはやめよう。
だって、経験のないことは分からないでしょ?
選択肢が自分にある世界自体、想像すらしていなかったのだから、分からなくて当たり前。
ここで言う”経験”がないのは、多くの場合、私の責任じゃない。
自分の存在そのものを歓迎され、見守られて育つってどんなかな? と想像してみるけど、分からない。 経験したことがないから、分からない。
何かしようとするとき、批判ではなく、励ましや後ろ盾に支えられている安心感が沸いてくるってどんな感じ? と想像してみるけど、分からない。 経験したことがないから、分からない。
「経験したことがないから分からない自分」を受け入れるのは哀しいです。
子供のときに、親から精神的な支えを得られなかったという動かぬ証拠だから。
親の支えや見守りの中で、のびのび過ごしたんじゃなかったんだ・・・と戻らぬ過去を突きつけられるから。
親の虐待より、あの苦難の時代を「自分は親に愛されて育っている」と思い込んでいた自分があまりに哀しくて、辛いのかもしれない。
事実を認めれば、あまりに辛いので、自分に嘘をついて思い込んでいたのが痛々しい。
これからは、自分でどうにでも出来るけど、あのいびつな精神的結びつきの家族で幼い日々を過ごした過去はどうにも出来ないことが、やりきれない。
あの人たちへの怒りや憤りを通り越して、哀しい。 悲愴ってこういうことなのかな?