シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

Aさんがいて、Bさんがいて、Cさんがいて・・・私もいる

ある本に、
「普通の人なんていません。Aさんがいて、Bさんがいて、Cさんがいるだけです。」
という内容の記述がありました。
 
そうだよな~と納得。
最近は、私も、このAさん、Bさん、Cさん・・・・と続く庶民の一人なんだよね、と思えるようになってきました。
 
はっきり自覚したのは先日街に行ったとき。
今まで、自分はこの場にふさわしくないと言うか、居場所がないというか・・・
はっきり理由もないのに、この場に存在するにふさわしくないような違和感がありました。
服装がいまいちとか、体型がいまいちとか、容姿がいまいちとか、具体的な理由があるわけではなく・・・私の存在そのものが許されていないような感じ、でしょうか。
理性では、一人の通行人としてこの場に馴染んでいることは分かっていても、違和感はずっとありました。
 
先日は、「あぁ、私もこの大勢の通行人の一人なんだな~」と、自然に思えました。
「私も、色々な考え方の、色々な歴史を抱えた人たちの一人。
 人と違うのは当たり前だし、今の感じで、大勢の中の一人になれるのはいいよね。」
 と感じている自分を発見!
 
 
今日の修理下見に来てもらったときも、
「私は大勢のお客の中の一人の”Aさん”だから、
 無理難題吹っかけるとかしなければ、普通にしていていいんだよな。」
   と、いつもよりリラックスしていられました。
 
今日の受診の時も、話しやすい女医さんだったこともあって、ある程度言いたいことをいえました。
今までは、自意識過剰で、
 ・うるさい不定愁訴と思われたくない
 ・神経質と思われたらどうしよう
と自滅不安が大きかったみたいです。
 
相手の話をちゃんと落ち着いて聞くことが出来るなら、「神経質」もほどほどなら、私の個性として受け入れていただくしかありません。
だいたい、体調が悪くて医者に行くわけで、ネガティブな心配ごとを聞かされるのも医者の仕事のうち~~
相手が無理!というなら、よそに行くしかない。
 
 
「自分はありのままで、ここにいていい」という感覚が少しでもあると、
色々なことに落ち着いて当たれるんですね。
これまで、自滅パータンで凄く神経をすり減らしていたんだな~
それって、親のニーズを最優先することを強要されて育った結果だったんだよな~
モラハラな批判を浴びるんじゃないかとびくびくして(;_;)
 
  こうやって、少しずつ生きるのが楽になっていったら、
  「ACなのも悪くなかった」と思えるのかな?
 
  「ACと気付いて、苦しかったけど、まぁまぁいい結果になった」とは思えても、
  親を許すのは無理!
 
  親を許せないのは、
    自分たちは子ども達を愛するいい親だとゆるぎない自信を持っているから。
  「精一杯やってきたけど、相手を傷つけたり、気付けなかったこともあったかも・・・」と
  いう視点が全くないから、許せない。
  「精一杯育てたから、足りない部分があったとしても、
              それに文句を言うのは、子どもの方が心が歪んでいる証拠」
  という信念を許せない。
  親のこのスタンスが変わらない限り関係改善もないし、許すことも出来ない。
 
親を許せなくても、回復の道のりは歩んでいける-その手ごたえも感じています。
この調子でのんびりいこう。