「自分にふさわしいもの」を考える時、親が与えてくれた物を考えてしまいます。
以前も書いたように、
小学生のころ、姉が1年着た服を2~3年着せられるのがいやでした。
(おなじ"一年着用"ならまだ我慢できるけど、着古してよれた服・時代遅れのものを
いつも着ているのは、惨めでした。)
学校で使う補助教材もことごとくお下がり。
ひどい時は、パーツがなかったり、壊れかけだったりで、友達に借りたりして凌ぐしかない状態。
この状況は凄くいやだったけど、今思うと、
お下がりを我慢していることへのねぎらいの一言が全くなかったこと
=あなたの気持ちを気にかけてはいるんだけど・・・という態度が
親に全くなかったこと
これが耐え難かったように思います。
いえ、父は最悪。
インクの切れたペンをくれたことがありました。
お前には、お父さんには用なしになった、
もはや正常には使えない物でも十分だろ?
お前にはインクのかすれたペンがふさわしい。
なんて愛情溢れるメッセージでしょう・・・
これは私の深読みではありません。
父は、会社の上司に、「ペンを貸して」と言われて、インクのかすれたペンを渡すようなうっかりさんではないのです。
「お前にはこれで十分。」とどこかで思っているから、捨てようと思ったかすれたペンを「お前にやる」と言ったのです。
母もたいがいでした。
「あんたは、(おさがりの)これを使いなさい。」 で、終わり。
「これを使おうね?これでいい? 悪いけど、これで我慢してね?」という、私への配慮はなし。
母は、自分で勝手にどうするか決めて、こちらの意思は無視です。
というより、こちらに気持ちがあることすら念頭にない。
わが子の発するサインに気付こうともしない(面倒だから、無意識にわざと無視していた?)
わんこですら、「今はこのおもちゃの気分じゃないんですけど・・・」と目つきや身振りで示すと言うのに・・・その気があって、気付けないはずがありません。
毎回気付くのは無理でも、全く配慮がないのは、(無意識でも)わざと無視していたとしか思えない。
私が親から受け取ったメッセージはこう。
お前には、お古の二流・三流品で十二分だ
お前の気持ちなど、配慮する価値も必要もない
実際、異議申し立てをすると、
・こうして使えるものがちゃんと用意されているのに、文句を言うなんて
とんでもない奴だ(うちにそんな経済的ゆとりはないのにわがままだ)
・あんたは妹なんだから、お下がりを使うのも仕方ないでしょ
と責められて、私が悪者になって終わり。
修学旅行のときなど、特別な時は、あれこれ新調してもらえたらいいな、日頃我慢しているから、行事のときだけは・・・という思いもありました。
そんな願いが通じるはずもなく、母はお古をかき集めて終わり。
友達は新調してもらっているのに、自分だけ、かばんも何もかもお古で、惨めな気持ちでした。
でも、もう、その年齢の時は、文句を言う気力もなかったな・・・
何か言えば、「わがままな奴」と家族総出で責められるだけだから。
買ってもらえなかった事実も辛かった。
低額の小物幾つか、くらいなら、買い与える経済的ゆとりがあるのは
子供心にも分かっていました。
買ってもらえなかったのは、私の気持ちへの配慮がないからだというのを
実感で知っていたみたいです。
当時は、単に、「お古ばかりで恥ずかしい」としか思っていませんでしたが。
それより、気持ちを黙殺されたことがもっと辛かった。
こういう生活の中で、
私は普通の人よりみっともなくて、恥ずかしい存在なんだ
私は気持ちを配慮してもらうに足る人間ではない
という思いを深めたんだな~
もう、その辺にある適当なもの で済ませるのはやめよう!!
それは、子供時代の再現。
今の経済力で自分に与えられる一番いいものをあげよう。
親の暗黙のメッセージどおりに生き続ける必要はない。
今の私は、「自分に必要で、欲しいなら、(買うお金があるなら)一番いいものを自分に与える」のも、必要な癒しの作業の一つ。
「自分を大事に」の一つの形。