ゆるしについても、私にとっては大きな課題です。
今は気持ちの整理の途中だし、怒りや憤りを抱えているのも仕方ない
(やっと、こういう感情をありのままに感じられるようになってきた段階)
でも、ずーっとこのまま負の感情をもったままだと、
自分でもしんどいな~と思う。
まだ、親をゆるすように取り組む段階ではないです。
でも、自分にとって、”ゆるし”って何だろう?と
つらつら考える今日この頃。
これまで、あの人たちを許すってことは、
過去をなかったことにして(少なくとも、今後は取り上げないことを前提に、水に流して)、あの人たちをあるがままに受け入れて、付き合っていく
というイメージでした。
でも、ゆるすことと、交流を持つことは別にしていい気がしてきました。
これまでのことは、哀しい思い出として、少しずつさよならしていきたい。
いつまでも、怒りや悲しみの素として、抱えていたくはない。
これまでのことを、そうやって、過去のこととして整理して、相手への怒りや憎しみ、憤りを越えていくことを「ゆるし」と言うなら、ゆるすことに挑戦してもいい。
あの人たちは、ああなんだ、と、諦めと共に受け入れる
(偉そうな言い方をすれば、あるがままに存在することを許可する)
のを、「ゆるし」というなら、ゆるす事に挑戦してもいい。
でも、あの人たちと同席すること、言葉を交わすことは出来ない。
なぜなら、一度会えば、元の木阿弥。
自分たちの支配権が完全に復活したとばかりに、優越感に浸りながら、上から目線で偉そうなことを言い、私を傷つけるのは確実だから。
これは、去年実証済み。
義兄の親兄弟同席のお祝いの席で、さすがに暴言は吐かないだろう・・・と多少は期待していたのに、
「中絶なんかしとらんやろうね」
が飛び出しました。
第三者と一緒でも、安全ではないことが証明されました。
彼らと直接会ったり、電話で話したりするってことが、許しの形なら、
この「ゆるし」はできないし、自分を守る為にするべきではありません。
彼らとは接触を断った上で、出来ることをやろう。