シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

訃報を待つのが居心地が悪い件について

現在義父の訃報を待つ形になっていて、微妙に居心地が悪いです。

このブログでは何度も書いている通り、私個人は、義父が義姉と義兄の魂を殺した(追い込んで精神障害者にした)と思っているので、義父の生死に感情は動きません。
苦しめばいいとも思わないけれど、出来るだけQOL高く、安心して過ごして欲しいとも思っていません。
敢えて言えば、「神様のお定めになったようになるだけ」(私の感情の入る余地はないし、入れる気もない)

それでも、終わりを待つのは居心地が悪いのは、心の奥底では自分も死にたくないと思っているから、誰かが死ぬのは少なくとも「不幸」が含まれると感じているからなのだろうか?
義父に不幸が降りかかるのを待つのは、良心が咎める?

自分の死を誰かに待たれるのは嬉しくないから、今の状態が己に還ってくることを恐れているんだろうか?

単に、苦手な「待つ」状態の居心地の悪さだったりして。
死後山ほど発生するあれこれに関わるしかない立場だから、「その時が来たらやらなきゃいけない仕事リスト」の一連の作業がいつ始まるか分からないことに多少うんざりしてしまうことを咎められても困りますが。


よく分かりません。
多分、色々な理由が絡んでいるのでしょう。

「哀しみとか寂しさの感情全くなしで義父の死を待っている私」を他人に知られることに後ろめたさを掻き立てられるから嫌なのかも。
義父が安らかであるようにと折に触れて祈っている状態だったら、この微妙な居心地の悪さはないのかもしれません。

わんこが旅立つ前、がんは小さくなったのに、貧血になったり、食欲がまた落ちたりして、「いよいよなのかもしれない・・・」となった時は、わんこの旅立ちを待つ気持ちはなかったから、辛かったけど居心地の悪さはなかったものなぁ。

他の人はどうなんだろう?