先日から読んでいる本で、「まずはどういう生活がしたいのか、それはなぜか自問してみましょう」とあったので、早速つらつら考えてみました。
20年以上前からずーっと思っている理由:
やる事に追われることなく生活(家事も含めて)を楽しみたい
仕事に打ち込みたいと思ったことはなく~上手く家事をこなしつつ、自由な時間も多少ある。
「雑用」になりがちな家の仕事も楽しくこなして日々過ごす、 が夢。
物が多ければ、管理も掃除も大変だし、第一、目に入る家の中の風景がごちゃついて、
落ち着かない。
やることも減らしたいけれど、料理一つとっても、物の少ないすっきり空間での作業の方が
精神的不可が少ない分、スムーズだろう、と想像。→まずは物を減らしてみよう。
いつ死んでもいいように準備
「いつ何があっても大丈夫」なように片付けて、自分の人生(物)を把握しておくのは夢です。
いつ何があっても、物質面での始末は出来ている、という安心感があれば、
気持ちのゆとりを持って色々なことにチャレンジできる気がします。
今回の内省で気付いた理由:
過去を清算したい
私の中では、未だに親とのあれこれは未解決部分の多い大きな問題です。
写真のように直接親の気配がするものはもちろん、
「過去へのこだわり」が捨てられない理由になっている物の数々とさよならして再出発したい、 と思っているようです。
具体的には、
・高かったからとか、いまいち気に入らないけれど実用には耐えるから、とかいう理由で捨て ずにいるもの(服、道具類など)
・もう十分役目を果たしたのに、未練で置いてあるもの(本、漫画、自分の作品、手紙など)
・写真
本当は、数枚残して全部捨ててもいい気がします。
小学校の修学旅行の写真とか、いらない。卒業アルバムで十分、って気も。
将来への不安への囚われと向き合う
多量のストックは、将来への不安から。
子供のとき、自分に一番必要なもの(親の愛情や、見守られている安心感、存在が受け入れら れている感覚など)が十分に手に入ることはありませんでした。
常に飢餓感に曝されて育ったので、手に出来るときに溜め込もうとするのだと思います。
もう大丈夫だよ、を具現化して、もう大丈夫だよ、と自分に言いたい。
自分に”いいもの”を与えることを許す
物質面でも、お下がりばかりで、「お前にちゃんとしたものは必要ない。
お前は新しいものを与えられる価値はない。」と親からメッセージを受け取りながら育ちました。 壊れているもの、何とか使えるけれどクラスメートに見られたくないと引け目を感じるくらい状態 の悪いもの、姉が1年使ったものを数年使わされたり・・・単なる「お下がり」以上に、待遇が悪 かったです。
不満を言っても、怒られるか、無視されるか。
ここでも、「親に気持ちを無視される」が続きました(;_;)
「いつもお下がりだから、たまには、新しく買ってあげよう。」とか、
「いつも我慢させて悪いね。」の一言とかあれば、私の心の傷も随分違ったと思います。
「(多少状態が悪くても)必要なものが用意されているんだから、
不満なんてあるはずないでしょ。」が親(母親)の言い分。
今は、余程高価なものでなければ、満足できる品を、必要なときに好きなだけ買う自由とお金 があります。
それなのに、いまいち気に入らない(買い物に失敗してサイズが合わない、自分の中で旬が過 ぎた、など)ものを自分に与えるクセがあるな~と思います。
子供のときにあまりに馴染んだ状態-「お前にはこの程度のもので十分。」-を、
今も自分で自分にやっているのです。
意識するようになって、少しは改善しましたが、自分が好きかどうか、使うとき楽しいか、より、
どこかで、気に入らないものを自分に与えて自分を貶めている気もします。
「数が少なくても、気に入るものだけに囲まれて暮らしたい。」は、自分を大事にしたい気持ち。
「もったいないから、自分の奥底にある不満は無視して、あるものを使い倒してから次を買う。」 は、 自分の気持ちを無視するこれまでのやり方を踏襲している時。
一度すっきり、ちょっとでも気に入らないものは捨てて、再出発したいです。
心を乱すもの(将来への不安の象徴、過去の嫌な思い出に繋がるもの)は
家から追放して、
心の平安を得て再出発したい。
これが私の「片付けたい理由」