[親のイメージ]
断崖絶壁に私がぶら下がっていて、落ちたら死ぬ状態。
私が一人で這い上がるのは無理!と助けを求めても・・・
「な~んね、お前は。早く上がってこんね。
そのくらい、自分で上がってこれるやろうが。」
と言うだけで、何もしない。
助けを呼びに行くとか、自分で助けようとするとか、一切ない。
見れば、危ない状況なのは分かっているのに、自分が危険に身を曝したくないから、面倒だから、見ないふり。助けは必要ない状態だってことにする。
私が落ちて死んだら・・・
「足がすべったっちゃろうか?」
自分たちが助けなかったことを後悔することはない。
私が助けを求めたことは都合よく忘れて、「事故扱い」。
私が何とか必死に登りきったら・・・
「ほら、大丈夫やったろうが。お前はいっつも甘えて大げさやけんね。」
わっはっは。
根拠のない嘲笑。
これが全てです。
実家にいた時は、身の回りの世話をしてもらったり、無難な世間話が普通に出来る中で、嘲笑や虐待があったので、最近まで、
「モラハラ・虐待親だったけど、愛情や思いやりもちょっぴりはあった。」
と思っていました。(そう思いたかった・・・と言う方が正確。)
先日の「タフラブという快刀」に、「それを愛(ラブ)とは呼ばない」と宣言してもらって、
自分に嘘をつくのは止めました。
これまで親に優しく見守る愛をもらったことがないので、
それに憧れたまま、
ずーっと、ずーっと諦められずにいるのです。
すんなり、親に見守られて育った人は、それが当たり前なので、執着することもなく大人になれます。
死ぬほど欲しかったのに、手に入らなかったものにはどうしても執着してしまう・・・
ほんの少しはあった、と思いたい。(全くなかった、じゃ救われないから)
凡人には仕方のないことです。
正直 凹む。 哀しい。 虚しくなる。
あんな人たちにいつまでも執着して、愛されたいと思っていた自分が哀しい。
(今は、心を通わせたいとか、愛されたいとは思っていません。無理。
でも、”愛されていなかった&いない”事実を平気で受け止められるようには
なっていません)
あの人たちの本性を見抜けず、「子ども達を愛している。」という嘘に気付けなかった自 分が腹立たしい。
自分たちはいつでも(私との関係において)正しい、と思っている彼らが憎い。
手に入らないものを嘆くのは仕方がないけれど、それはそれとして、
自分が幸せになれる道を探したい・・・そう思って、やってきました。
少しずつ、回復の手ごたえを感じることも増えてきました。
でも、やっぱり、彼らに腹が立ったり、やりきれなくなったり、凹んだりもします。
復讐したくなるときもあります。
彼らと同じレベルに堕ちたくないので、何とか思いとどまっていますが。
彼らにとっては、「理由もないのに、接触を断ったままの娘がいる。」のは
ストレスでしょう。
私に出来る復讐ってこれだけ。
彼らは、自分の役に立たない者はあっさり捨てるので、絶縁が固定したら、
「わけの分からん不愉快な奴」で終わるんだろうな~
「嫌われた」と自覚することも出来ずに逝くんだろうな~。
彼らがこんな性格だという事、
”せめて私が嫌だと思っていることだけははっきり知って欲しい”も夢で終わること、
この苦い現実を受け入れて、
「いやな事実だけど仕方ない」と消化するのが目標の一つです。
出来るのかな??
やろうと思っても無理だろうな。理性では、イヤと言うほど納得できているのだから。
他の回復の手ごたえと同じく、気付いたら、「あれ?どうでも良くなってた」ってなるのかな。
そうなったらいいな・・・