シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

現場の生の声―死ぬ時後悔すること―

ネットでちらと見たブログの記事で、どのサイトだったか分からなくなってしまったのですが・・・現役看護師さんから聞いた話、とありました。

死ぬ時後悔すること(順番違っているかも・・・)
1位 もっと自分と向きあえばよかった
2位 大切な人に大切だと伝えなかった
3位 命はいつか突然終わるものだと分かっていなかった

「死ぬ時後悔すること」を扱った本に書かれていることと同じで、これが現実なんだろうな、と思います。

私の人生の目標は、「いろいろあったけど、まずまずいい人生だった、と思いながら死ぬこと」です。


私は、迷ったら、「余命数か月だったら自分はどうするだろう」と考えます。で、パートを辞めました。

たまに「急にどちらかが死ぬかもしれない」と考えます。
で、わんこには毎日「ありがとう。大好きだよ。」と言い続けていました。
 「ありがとうはちゃんと言った」というのが、わんこが亡くなった後、後悔を少し小さくしてくれました。
でも、人に対しては、あまり出来ていないかなぁ。夫が出かけるときは、極力玄関まで見送りに行くようにはしていますが…。

「親が突然死したら、絶縁していること後悔する?」は何千回も考えました。
答えは、「後悔しないだろう」です。
「理解しあえるいい関係にはなれなかったこと」を残念に思い、悔やむかもしれませんが、「自分を守るためにはあれが自分の限界だった」と思えそうだから、もう、「親と和解できない自分」を許して受け入れよう、と思っています。

自分はACだ、親は毒親だ、と気付いてから、しんどい心の旅が続いていますが、「自分と向き合う」という意味では、自分を成長させてくれたのかな、とは思います。
以前にもまして、理屈っぽくなっちゃいましたけど(^_^;)
でも、今余命宣告を受けても、「自分と向き合ってこなかった。どうしよう!」とパニックにはならないかなぁ、という感覚はあります。




日常生活で、何だか自分とは判断基準・価値観があまりにも違うな~ と感じることがあります。
これまで、この違和感を上手く言葉に出来ませんでしたが、「このことも関係しているな」と思いました。
人生に対する大元の前提が違うせいだったようです。

自分もそのうち死ぬ、ってことが頭の隅にある人は、一番ベースの部分で共通点があるせいか、他の価値観が全く違っていても、「会話は成立する」感覚があります。
「同じ文化を共有している安心感」に近いのかも。

どんなに日頃現実を見ずに過ごすことが出来ても、人生の最期にはすべてが清算を迫ってくるし、自分の人生の結果はどんなに嫌だと泣き叫んでも、自分で引き受けるしかないことが、心の隅にもない人は、一番ベースの部分が自分と違うので、表面的には仲良く出来ても、「魂が触れ合う嬉しい感覚」が持てないのかなぁ。(母親に対してはこれも大きいです。彼女は人生の荷物を他人に背負わせようとしている感じが凄くあります。)


何はともあれ、私の目指す、「そこそこ満足して死ぬこと」の為には、時々死を意識するのが肝要なのは間違いないようです。