シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

心の旅の同行二人

同行二人とは、四国のお遍路さんが、1人で歩いていても、常にお大師さまがそばにいて、その守りを受けているという言葉だそうです。

私の心の旅の同行二人はわんこだなぁ、とつくづく思います。

夫は私の気持ちを否定せずに、親と距離を取ることも応援してくれていますが、やっぱり夫には夫の人生があるわけで、どんな時も、じっくり話を聞いてくれて、励ましてくれて、見守ってくれて、というわけにはいきません。

わんこは、無言で常に側にいてくれました。
あまりにも親の洗脳が根深くて、「気持ちに寄り添って欲しい」「私の意見も尊重してほしい」とか、こういうのは全部私の身勝手、わがままなの? と思うこともしばしば。
私の対応が悪かったんだろうか、別の結果があったんじゃなかろうか・・・と自分を責める方向に行くことも。
子供の時の記憶はあやふやだし、「子供三人育てるのは大変だった」ことは、子なしの私でも理解できるから尚更。

でも、わんこが、「そうじゃない」といつも引き戻してくれました。
動物の一部が群れで暮らすのは、困った時に助け合うため。
私が困っていると感じているのに、「それはわがままだ、本当はお前は困ってなどいない=助けは必要ないはず」と親が判定することなのか?   違うでしょ。
わんこも、昨日は平気だったことが、今日は「いや、怖い」だったりする。
わんこの気持ちは私がジャッジすることじゃない。

私がこうして大人になっているのは、親のおかげなのも事実。学費も出してくれたし、手間暇かけてもらった面もある。
でもね、違うよ。
日頃わんこの世話をちゃんとやっているからって、自分がイラついたときにわんこをたたいたり、無視したり、バカ犬呼ばわりしていじめたりしていいってことにはならないのと一緒だよね?

自分は親が言うとおりのダメ人間なんだろうか? と思う時も、「いやいや、他のこと(仕事も主婦業も)中途半端だけど、わんこの世話だけはちゃんと一生懸命やってる!」というのが支えでした。

心の旅が長くなるにつれ、「いつまでも同じところをぐるぐる回り続けて、私は”虐待された可愛そうなわたし”に留まることで、色々なことから逃げているだけなんだろうか?」と思うこともよくありました。
そういう時も、「いや、昔より、わんこの気持ちを大事にできるようになったし、親との距離も開きつつあるし、ほんの少しずつでも進んでる。」と思わせてくれました。

自分の心身の健康のためには、親の老い先に関わってはならない、と思いながら、「私は冷酷なんだろうか?」と思ったり。今後、こう思うことも出てくるでしょう。
そういう時は、わんこの最期の日々を思い出そう。
わんこの病気が分かって、どんなに情報を集めて専門家に相談して考えても、「ベストな選択」がどれか誰にも分からなかったけど、「わんこの為に考えて決めるのは自分しかない」ということ、「自分の選択の結果をわんこに押し付ける理不尽をするしかない現実」-そういうことから、私は何とか逃げずにいられました。
ただわんこのそばにいるしかできなかったけど、でも、何があっても、辛くなっても、逃げずにそばにいるよ、という気持ちだけは、わんこに伝わっていたと思いたい。

結果的に、親が野垂れ死にしても、私の人格に問題があって親を捨てたんじゃなくて、長年の親子関係の終着点にすぎないんだ、とわんこが思わせてくれると思います。

わんこは旅立ってしまったけど、これからも、「同行二人」です。(わんこには迷惑かも(^_^;))