シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

”母なるもの”への未練のようだ

母親についてつらつらと考え続けています。
私が「ん?」と思ったのは、父親とはこのまま死に別れても平気なのに、母親には揺れがあることに改めて気づいたからです。

よくよく自分の中を探してみても、彼女との絶縁への迷いや関係改善への望みが残っているのに、無理やり抑え込んでいる感触などは見つかりませんでした。

思い返してみると、4年前の電話で絶縁話になった時、母親は、「(自分に対して不満などがあるなら)その時に言ってよ!」と言いましたが、それまでも何度かは言ったし、珍しく私が不機嫌・怒りを露わにした時も、話題を変えて誤魔化したのは彼女。本当は聞いて、表面的な言動さえ変える気などない。
絶縁電話の時だったか記憶があやふやですが、私が彼女の言動に文句を言ったら、「親子の気安さで何か言ったかもしれない」という反応でした。
私の意見や都合は完全無視するのも、嘲笑ってバカにするのも、「親子の気安さ」なんだ。ふ~ん。
  ますます気持ちが離れたことを思い出します。

「余命宣告をされたとして、生死を問わず会いたい人100人リスト」を作ったら、両親がリストに入るんだろうか?自分が死にそうなとき、会いたくなるんだろうか?と自問すると、答えは「NO」
なぜなら、私を労わるような言動は全く期待できないどころか、自分の利益しか考えていないことを見せつけられて、更にうんざりする確信があるからです。死に際に不愉快な思いをしたり、他人の気持ちの世話はしたくない。
どうして死を前にして、「やっぱり私は親に愛されていなかったんだ」と改めて確認しなくちゃならないのか。しなくていいです。もう十分しんどい思いをしましたから。

母親は、遺品整理の手伝いに駆り出される心配が頭をよぎったら、「身辺整理は済んでいるんだろうね?」と言うだろうし、
遺産が欲しいと思っていたら、「親も相続人だよね。いくらぐらいあるの?」と聞いてきそうだし、
死にゆく人の不安や気持ちの揺らぎに接するストレスが嫌だったら、「安らかに逝く心の準備は出来てるよね。」と念押ししたり、「人間みんな死ぬんだから」と説明にもならないことを言って悦に入るかも。
自分の老い先の世話人が心配になったら、「親を残して逝くなんて、私の世話は誰がするんだ」とか、「○○さん(夫)が私の世話をしてくれるんだよね。義理とはいえ親子だもんね」とか、言い出しそうだ。

死に際に会いたくもないし、絶縁して良かった!と思っている相手にもやもやが残っているのは、まだ自分の存在全部を受け入れてくれて、大事にしてくれる相手をあきらめきれていないからなのかな~。

一言でいうなら、「存在丸ごと愛された感覚への渇望」 「生存許可証へのこだわり」。
これはどうしようもないから、母親へのもやっとしたものはそっとしておこう。

母なるものと、彼女とが私の中でまだオーバーラップしているので、未練がましい気持ちがあるような気がしてしまうようです。