シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

名前のない生きづらさ 野田彩花・山下耕平著

野田さんが自分の不登校経験から考えたこと、色々な言葉で定義することのメリット・デメリットなどの話、かな?

苦しみや違和感に名前を付けることには大いに意味があると思っています。子供の虐待も、以前は「しつけ」だったし、毒親も「親の個性・親が子を思う気持ちをちょっと変に表現してしまう人」だったし。
ただ、言葉ができると、それによって枠組みや縛りが出て、それで表現できない部分が零れ落ちたり、微妙にずれて、そのずれのせいで違和感や苦しさが増えたり、誤解されて更に歪んだり…と簡単ではありません。
常々思っているこのことを、整理・説明してくれている感じがしました。


気になった部分を…
奪われたがゆえに、奪った側の価値観を内面化し苦しんでいる。

「お預かり説」 体なども預かりものと考えると、思い通りにならないのが当たり前と思える

「分かるから認める」という論理は、裏返せば「わからないものは認めない」ということだ。

社会全体の商品化が進み、お金を稼がないと生きていけなくなっている中で、個々人が自分の商品価値を高めようと努力すればするほど、「おたがいさま」の領域や、社会の公共性は失われてきている。

彼/彼女らを追い詰めているのは、ひきこもっていること自体ではない。そのことを否定する他者のまなざし、そして当事者のまなざしである。

生きづらさのような一番手(自分にとって一番大きなこと、こだわり)はひっこめておいて、二番手(趣味や好きなことなど)で他者と交流するとうまくいく感じがする、という話がありました。
一番手はこだわりも思い入れもあるから、他者の反応や考え方に敏感に反応して、人間関係をこじらせる原因になってしまったりもするからのようです。これはそうだな~と思います。
本当は一番手を色々な人と話したいけど、自分が受け入れられる反応の幅が狭いから、嫌な思いをして終わり、なことも多いです。一番手は基本は自分自身と対話してやっていく、二番手三番手をオープンにすることで得られる経験や刺激が間接的に一番手に関する自分との対話に生きてくるんじゃないかな、という気がしています。