シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

世界の哲学者に学ぶ人生の教室 キ ケンセイ&白取春彦著

二人の哲学者が半分ずつ、世界の哲学者を紹介している本。
いろいろな哲学者が紹介されていて、飽きずに読むことが出来ました。
哲学に興味はあるけど、いきなり小難しい専門書を読んでもどうせ分からんわ…な、私のような人にぴったりの本でした。

気になった言葉は・・・

「実践し、習慣にする」  アリストテレス
人生を幸福に導く性質(寛容さ、知恵、誠実、公平など)を身につける本気の努力をすることが幸福への道(byキ ケンセイ)

「心とは知覚の束にすぎない」 デイヴィット・ヒューム
ヒュームには仏教的な視点があり、西洋哲学者がこういう考えだったことが新鮮でした。
(この本を読む限り、仏教から直接影響を受けたのではなさそうでした)
当たり前のように感じている因果も、突き詰めれば妄想?
 先日読んだ小池龍之介さんが解脱寸前で語っていたこととも重なっていました。

-------引用‐----
 人間関係というのは、一度の突発的な事件や性格によって壊れるようなものではなく、なんらかの相容れない心理状態が長期間継続し、双方あるいは一方が我慢を強いられ、じわじわと相手に対する感情がすりへっていくものなのです。
 最初の段階で何の改善策も講じないまま、一方が我慢の限界に達して放棄を決めた時は、もう手遅れです。(byキ ケンセイ)

全くもってその通りだと思いました。
人間関係も、うつ病なども。本当の理由があったとしても、それを知覚するのは困難な気がします。
何かがおかしい、どこか居心地が悪いと感じることが出来るようになったうえで、そこで必要なら手を打つことが出来るようになりたいですが…まだ、”感じたことを認知すること”すらスムーズではありません。


まず限界を理解すること、そして各種の認識形式を把握し、さらに能力の範囲内で最も合理的で最適な答えを見つけ出すこと。(byキ ケンセイ)
「他の星に生命のいる可能性の有無」と報じられるとき、それは地球と同じスタイルの生命体の存在を言っているようで、電気的な生命とか、人間の認知・思考力の外にある存在様式の生命体がいる可能性はどうなるんだろう…そこは、「認識できないから考えない」ということなのか、初めから考えていないのか…と不思議でした。
人間の能力で可能な世界の認識様式が限られている以上、分からないことの方が多いし、何が正しいかも不確かだから、自分で自分の在り様を選んでいくしかない…そういう話と受け取りました。

社会の常識や慣例から出来る限り自由であった人々こそ社会全体をよくすることに貢献してきたのです。(ジョン・スチュアート・ミル紹介のくだりで by 白取春彦
自分が社会をよくするとは思えませんが、社会の常識や慣例から外れる時にはこの言葉を思い出して、自分の好きにしよう。

フェルディナン・ド・ソシュール言語学はもう少し詳しく知りたくなりました。
言葉と、実際の世界と、その受け止め方の関わりの関係は興味深いです。うまく言葉にできませんが。

自分が現行の社会や組織の価値観に同一になっていないと、疎外を感じるのです。(by 白取春彦
私が感じる他者の集まりの中での疎外感の一部は、確実にこれです。
誰でも世間一般やその場に集まっている人たちの平均値からはずれているのに、そのずれに過敏に反応しているのか、私が感じている通り、ずれが大きいのか…そこもよく分からないのですが、何かが違いすぎる、この人たちは”私と同類”ではないと感じる理由の一つはこれ。
疎外を感じること自体は、普通の反応なんだな~。だから、それにダメだしするのは止めようと思えて、少し救われました。

一人でいられるようになることは、愛することができるようになるための一つの必須条件である。もし、自分の足で立てないという理由で、誰か他人にしがみつくとしたら、その相手は命の恩人になりうるかもしれないが、二人の関係は愛の関係ではない。逆説的ではあるが、一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。 エーリッヒ・フロム
「一人でいること」も、色々な定義があって、よく分かりません。
単に物理的に一人のこともあれば、他から退却・逃避してひとりの場合もあるし、疎外を感じてのひとりもあるし・・・。
つるむのは苦手なので、ひとり・孤独を肯定的に捉えている言葉には励まされます。



この本を読んで感じたのは、哲学と仏教は共通見解が意外と多いということ。
体験があってから思考が生まれるとか、頭による知覚・認知(考えたり、”痛い”と感じたりする)より、身体が先に感じていることも多いとか…脳科学や、武道の身体感覚、心理学なども繋がっていて、おもしろいです。
自分が感じたことをうまく言語化できないのがもどかしい。