シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

「捨てられる」絡みのフラッシュバック

いま病気関係の読み物を読んでいます。
その本で、中世ヨーロッパで猛威を振るった黒死病(ペスト)についての個所がありました。
当時は治療法はなく、防ぎ方も分からないので、自分が死なないために、病床の家族の枕元にパンと水を置いて、「必需品を取りに行く」と言って出かけ、そのまま戻らない(見捨てる)こともよくあったそうです。
瀕死の病人が、助けを求めている様子が窓から見えたとか…。
感染した子供が親に捨てられることもよくある光景だったようです。

側に留まって一緒に死ぬか、自分が生き残る可能性に賭けて家族を置いて出て行くか-究極の選択だっただろうな。

これは後から出てきた感想で、この部分を読んだとき、私が追い詰められていると知って大喜びであざ笑ったあの人たちの得意げで嬉しそうな声が蘇りました。
あの人たちが私を見捨てる時は、嘲り付きだったなぁ。何だか嬉しそうだったなぁ。

助けを求めていた人たちも、自分が見捨てられたことは分かりつつも、苦しくて、助けてほしくて声を上げていたんだろうな…。
「大昔の哀しい話」じゃなくて、私にとっては「少し前に我が身に起こったこと」。
助けを求めて呻く姿は、”どこかの誰か”じゃなくて、”私自身”と即座にシンクロして、苦しい感情に占拠されていました。こういうのもフラッシュバックの一種なのかな、冷静に思い返すことが出来たのは、感情の荒波が去った翌日になってからでした。


私の場合は、こういう場合だったら、「助けて欲しいと思うこと自体が甘えで、そういう風に感じる自分が悪い」と思うように洗脳されていました。親はそこまではっきりと意図していなかったでしょうが、自覚していなかっただけです。
助けやいたわりを求める声は、嘲り・批判・無視で叩き潰して、そういう声を上げないように”躾けた”のですから。




トラウマなどを扱った本なら、ある程度覚悟して読み始めますが、ちょっとした気晴らしで読み始めた本でフラッシュバックですか…

何とも言えない気分です。
トラウマ持ちは、いつフラッシュバックが起こるか分からない地雷原で暮らしているのと同じなので、常に過剰警戒=緊張・ストレス状態下にあると表現している人がいましたが、こう言う事なのかな…。
これまで、無自覚だったのにも笑えますが・・・この”自覚の難しさ”もこの問題の根深さの一つだと思います。