シンプルライフへの遠い道

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哀れな人たち

親がどういう人物なのか、点のエピソードを線につなげる作業をしています。

何だか哀れだな~というエピソードもいくつも思い出します。

最後に姉の義父の葬儀で会ったとき、その1年前の絶縁の事実は無視されました。
相手がこちらを無視して放置しないのなら、どれ、聞いておくかい、と父親の大腸がんの病状がどうだったのかを聞きました。私の本音は、こう思うのは人としてどうかと自分でも思いますが、別れを予想させる話が聞きたい、でした。(実際は、転移も再発もなく克服したらしいです)
父親が嬉々として詳細を語り、「だから心配はないんだ」と強調するのを白けた目で見ながら聞きました。
相手は、病状が酷ければいいと思って(彼からすると彼の不幸を願って)尋ねているのに、そんな発想は全くなく、心配してくれていると勝手に解釈し、勝手に喜んでしゃべっていました。
何だか哀れでした。
この人もこれだけ愛情や関心に飢えているんだな~。
彼は今でも、「心配して病状を確認された」と思い込んでいるんでしょうね。
その妄想の中に一生留まることが出来る妄想力の持ち主なので、今後もお幸せにお暮しでしょう。


母親も、こちらは気持ちが切れているのに、それに気づかず、子供の時と同じやり方で思い通りに事態を動かそうとすることが何度もあって、脱力しました。

母親が姪の子守りに私の近所の姉宅に滞在する時にも、私が会わないというので、それまで無関心だったのに、急に、「お前の手芸の作品が見たい」とか、「お父さんもわんこに会いたいと言っている」とか言い出したことがありました。(そもそも母親は動物は好きではない)
子供の時は親の関心や愛情が欲しくてたまらなかったので、そうやって関心を見せれば、すぐに機嫌を直して言うことを聞いたのでしょう。
既にこちらの気持ちは切れていて、家に彼らを入れるなんてありえないし、「大事なわんこにあんな人たちを接触させるなんてもっとありえない!」だったので、もちろん断りました。
変化に対応できず・・・というより、変化している現実を全く見ずに、昔の楽な戦略のままで乗り切ろうとするのが、「おバカさんだな~」と哀れでした。
似たことは何度もありました。
母親は父親とは違って、私との距離がひらいていることは感じていたようです。でも、どうすればいいか分からない。それならお前の好きにしろ、と突き放すだけの胆力もない。老後の世話をしてほしいから。



思い返すと、あの人たちが私を虐待してきたのも、人としての器が小さく、自分の弱さを認める(正面から向き合えない時はそっと横に置いておく・・・でも、弱さの存在には気づいておく)ことも出来ないし、身近で手軽なストレス解消法(反抗できない子供を嘲るとか、愚痴のはけ口にするとか)に頼って、自分の心の面倒を見るノウハウを身につける手間暇を省いたからなんですよね…。
いつまでも子供を自由に支配できるという前提で生きているのも、そうではないという現実が積み重なっても、前提を変えない(変えることが出来ない?)のも、硬直していて、何だかな~です。
あの弱さは「仕方ない」で済むものなのか、私には分かりません。

母親に対しては、私への虐待とは直接関係ないことでも、「どうして自分の立場からしか物事を見ることが出来ないんだろう。自分と同じ考え・価値観でない人に安易に×を付けるんだろう」と思うことが多かったです。
父親はそれ以前。



自分に見えるのはほんの一部だし、自分の判断も偏っているので、他人に対して安易に〇×や点数をつけるのは極力控えるようにしています。
でも、親は例外。エピソードを切れ切れに思い出して怒り狂うんじゃなくて、「こういう残念な人だから仕方ない」と諦められる方が自分の精神衛生上いいので、彼らが良き隣人、良き友人、良き親戚だったとしても、毒のある親で、慈悲や共感力という意味では落第点だと判定することが必要ですから。



虐待を受けた子の脳画像を使った研究が進んでいますが、誰か、毒親の脳の研究してくれないかな~。
毒親って、極端に共感力や変化への対応力が低い気がするのです。
毒親育ちの人が毒親になるのはまだ分かります。脳にダメージを受けてしまって不健全な思考・行動回路が強固に出来上がっている場合、それを自覚できても、修正するのはかなり難しいですから。
でも、精神的に健康な親に育てられて、親とは健全な愛着関係を作ってきた人が毒親になるのはなぜなんだろう。どこで、「思いやりや共感力」を落としてくるんだろう。興味があります。