シンプルライフへの遠い道

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安心感をくれる人はいましたか?

今読んでいる本で、子供の時の逆境体験(主に虐待)についてのアンケート項目紹介があって、
「(子供の時に)一緒にいると自分は安全だと思える人はいましたか?」というものがありました。
(正確な文言は違ったかも)

すぐに思い浮かんだ答えは「誰もいない」。
このことにもじわじわ打ちのめされています。
10年近く前に、「自分は親に愛されてはいなかったんだ」とはっきり認識した時以来の衝撃かも。

親に愛されていなかったこと、自分はACだということ、どうしても人間に慣れることが出来ないとか…いろいろな嬉しくない現状を自覚して受け入れてきましたが、この質問を目にして、「あぁ、そうか、自分が子供の時から持っている”いざとなると誰も助けてくれない”だとか、”生存許可証がない”と感じることの起源はここか…」と改めて思い知らされました。

以前から自覚していることを別の言葉で聞かれただけなのに、どうしてここまで打ちのめされるのか、自分でも分かりません。

親以外の周りの大人…先生、近所の人、クラスメートの親、祖父母を含めた親戚など、子供のころ接触のあった大人の顔を思い浮かべてみるのですが、誰一人、「この人といるとホッとする」というのはなかったな…。はっきり不信感があったわけでもないですが。

今思えば、高校の部活の顧問の先生は、相談したら話を聞いてくれたかもしれないとは思いますが、高校の時には自分を欺くシステムが出来上がっていて、自分は親に愛されていると思い込んでいたので、表面的には問題なく生活していました。



このことでもう一つがっくり来たのは、
「愛されている、安全だと感じた記憶が欠けていると、人間の優しさに反応する脳の受容器は、どうしても発達しそこなう可能性がある。」 というセラピーが効かない人の特徴についてのある本のくだり。

自分は、親愛の情を示されても、褒められても、それをそのまま感じることが出来ません。
理性で、これは嬉しい度7くらいの刺激なんだろうな~と考えはするけれど、感じるのは嬉しい度2だったりするのが”いつもの状態”です。全く何も感じなかったり、ただ困惑するだけの時も多いです。

身の安全が脅かされているとはっきり感じたエピソードもなかったので、自分が安全度をどう感じていたか振り返ったことがありませんでした。
身近な大人たちが助けにならないと思っていたということは、心からくつろげる安全な場所はなく、自分で何とか出来なければ、死ぬのが自然の摂理という世界にずっといた、ということなんだな…。


セラピーも効かない可能性が高いと知って、がっくり感半端ないです。
人間関係や場の状況がいい意味で揃うと、幼いころの愛情や安全感が再活性化されることで、セラピーの効果が出るらしいです。全てのケースでそうだ、というわけではなく、あくまでも虐待経験者の話ですが。
いま、「働くことを通して、人間関係の中に身を置く」とか、自分なりにやっている努力は、私には無駄な可能性が高いってことです。呼び覚ますべき感覚がもとからないのですから。

勘弁してほしい…って感じ。
しばらく凹んでいよう。