シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

今更だけど、これはフラッシュバック?

トラウマを抱えた人がフラッシュバックに苦しむことが多いのは、知っています。
ですが、自分がフラッシュバックを経験しているとは正直思っていませんでした。

「自分がトラウマ持ちなのは確かだけど、でも、フラッシュバックはないし、軽症なのかな?その割には、かなり精神的にしんどいんですけど!」とよく思っていました。

昨日、ふと、「そもそも、フラッシュバックって何?」と思って、ウィキペディアで見ると…

フラッシュバックという用語は過去に起こった記憶で、その記憶が無意識に思い出されかつそれが現実に起こっているかのような感覚が非常に激しいときに特に使われる。フラッシュバックが起きた場合には、必ずしも映像及び音が存在するとは限らない。記憶には様々な要素があるため、フラッシュバックは「恐怖」などといった感情味覚痛覚など、感覚の衝撃として発生し得る。

とありました。
フラッシュバックを「あまりにも生々しすぎる記憶の再体験」と思っていたので、自分は経験がないと思い込んでいましたが、「感覚の衝撃として発生しうる」が引っかかりました。

誰かが、私にケチをつける目的で私の言動を見張っている感じがある。鞭で打たれないために、限界を超えてでも頑張らないといけないような切迫感。
  これを感じて、少し経ってから、「いやいや、この状況でそれはないよ?」と自分に言い聞かせる。

最初に就職した時からありました。
あとから、「いやいや…」と我に返る余裕(?)があるから、フラッシュバックだと思っていなかったけど、あの圧迫感を感じて焦っている時は、「フラッシュバック中」だったんじゃないの?

親のあざけり声が聞こえるのも、そうなのかも。
実際に聞こえた気がするわけではないですが、大喜びで優越感に浸りながら、私を嘲り笑っている両親の”あの時”の口調、醜悪な喜びに満たされたあの目つき、万能感の幻影に身を浸して悦に入っている様子-今ここでやられているかのように蘇ることがよくあります。今でも。
これもフラッシュバックの一種なのかな?


2013年のNHKの番組でインタビューに答えていた専門家(?)のフラッシュバックやトラウマについてのコメント
杉山登志郎さん(浜松医科大学特任教授)

突然、子どもが暴れだしたりするのもフラッシュバックですし、それから、親から言われた、「お前は生きていく価値がない」というのが、自分の考えとして浮かんでくるのもフラッシュバックです。

この人の説明の通りなら、私が今でも苦しんでいることの中に「フラッシュバック」は大きな位置を占めています。

自分でも何かうまく行っていないな、とか、もう少しこうした方がいいな(でも、今は出来ていないな)とか考えている時に、「だからお前はダメなんだ」なニュアンスで大喜びで嘲る親の声が蘇ることが良くあります。
で、「うるさい!(怒)」になり、「うるささの発生源である親にはさっさと私の人生から消えて欲しい」になることが多いです。
絶縁して距離を取ったから、親も年を取って多少気弱になったから、あの嘲りも少なくなった、と思わせてくれる実体験は何一つありませんから、彼らに対して「(この世からさっさと)消えてくれ」と思う自分を許すことにしています。

この番組での杉山さんのコメントの続き―
トラウマを忘れるわけではなくて、むしろ、今まで思い出そうと思っても、思い出せなかったものが、きちっと思い出せて、しかも、その思い出したものがバーンとならないという、距離が取れるんですね。
それが、トラウマ処理のやり方です。

これから考えると、「ああいう不快な輩もいたね」と静かに思い出せるようになったら、親のあざけり絡みのフラッシュバックからは脱出できたと判断していい、ってことなのでしょうか。

                  道のりはあまりにも遠い…

まぁ、焦ってもどうしようもないので、自分を観察しながらゆるゆるいこう。
それまでは、彼らに対して(怒)となる自分を「修行が足りない」と思うのは止めよう。
自力でコントロールできないから「フラッシュバック」なのに、それが起こることから派生する感情を責めても解決にはなりません。
せめて、自分の味方でいよう。