シンプルライフへの遠い道

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基本的信頼感の欠如の現状

先日書いた「世界への信頼感」の話は、精神医学・心理学(すみません、専門的な分類は分かりませんが)の世界では、「基本的信頼感」と言うそうです。
乱暴に要約すると、乳幼児期・幼少期に身につける「自分は存在していてOKだ、世の中は基本的に自分に味方してくれるという感覚」だそうです。

ネットをちら読みした限りでは、この信頼感を身につけられなかった人が後日獲得するには、「安全基地を持つ」「自分はOKだと自信を持てる体験を積み重ねる」「人を信じることができる体験を積み重ねる」などを続けるといいそうです。

う~ん、今の私にはこの説は微妙です。
「自分の思い込みじゃないかな?」と自問しつつ、経験を観察したり、実際に助けてもらったりしながら、「うん、自分の思い込みだったね。世の中、敵ばかりじゃないし、自分は存在していてもいいんだな」と
理性では理解できるようになりました。
他人は十分優しいし、私の存在も考えも受け入れてくれるし、必要なら助けてくれます。
私が相手の存在を脅かすとかのルール違反をしなければ、敵に回ることもありません。
(あくまでも”基本は”ですが)
少なくとも、私が他人に対してそうである程度には。
なので、他人がどうの、社会がどうのではなく、私の感じ方が歪んでいるのが原因だということも百も承知です。

私が困っているのは、現実はそうだと分かっていても、何とかならないかともがいても、
私の感覚は、
「自分は生存許可証を持っていない」
「空席があるのに、(生存許可証がないから)危機から退避するための救命艇に私は乗せてもらえない」                                                のままなことです。

そのことが苦しいのが問題です。

う~ん、何とかならないのかなぁ。

職場でも、理性で自分に言い聞かせながら現場に留まっていますが、感覚は「居場所がない」を感じ続けているので、緊張が解けないし、すごく疲れるし、他人と同じ空間にいることが酷く苦痛なことが多いです。
実際に働いている時は、仕事に集中している時間もあるし、”他人といても攻撃されるわけではない”を経験中なので、大丈夫な面もありますが…家にいる時の方が疲れるかも。
仕事のことが頭をちらつき、何だか緊張して、勝手に自滅して疲れます。

もう少し様子を見ながら続けてみようと思う時と、もうあきらめて引きこもりに戻ろうかな、と思う時があります。


いくら勉強してもネイティブスピーカーにはなれないのと同じく、今から”基本的信頼感”を学習しても、幼少期に自然に身につけた人たちのようにはならないでしょう。
それでも勉強を続けるのか、いったん諦めて別の道を探るのか、これは自分で決めることなので、なかなか難しいです。
努力を続ければ、日常生活に支障がない程度には、「存在していてもOKだ」と思えるようになるのなら努力しますが、この手のことは心理学的にも脳科学的にも研究段階で、「ああいうデータが出ているんだから、きっと何とかなる」と縋れるものも殆どないですし…。
それなら、他を切り捨てて、”わんことまったり暮らす”を最優先するほうが、幸せな時間の総量が多くなる気もします。

まぁ、考えて答えが出ることでもないので、体感を大事にしながらゆるゆるやろう。