シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

”自分がやりたいこと”を探る

自分がやりたいことをやればいいんだと思いながら、はっきりしません。
いえ、「わんこと暮らしたい」「貧乏は嫌だ」「不当にバカにされたり、抑圧されたり、搾取されるのは嫌だ」
この辺はかなりはっきりした自分の希望ですけど。

「やりたいこと」とは潜在的、根源的な苦しみを乗り越えるプロセスを与えてくれるもののことだ
好きなブロガーさんがこう書いていて、共感を覚えました。

仕事に気が向かないのは、仕事は私の潜在的・根源的苦しみとはあまり関わりがないからなのかな、と思ったりしています。
毒親問題・ACな自分との付き合い方以外に、潜在的、根源的な苦しみは何かもよく分からないのですが…。「やりたいこと」から逆にたどれないかな?と思って己を掘ったりもしています。


今更希望しても無理だろうということは脇に置いても、管理職になりたいと思ったことは一度もありません。他者をコントロールすることへの執着は小さめらしい(ないとは言わない)。

ですが、専門職は興味はなくはない。
例えば、「がん治療に特化して学んだ薬剤師だよ」な資格(のようなもの)を取って、悩める人に寄り添ったり、自分が病気になった時に備えたりしたら面白いのかもな、やりがいもあるんだろうな、と思う瞬間があっても、それで終わり。(専門分野は他にもたくさんあるらしい)

失敗するのが嫌なの?
実際に知識を身につけるのはしんどい?
現場で揉まれるのが嫌なの? 
家事との両立は厳しいから?
わんこは無理になるねぇ?

色々理由を自問しても、わんこと過ごす時の充実感以上のものを与えてはくれまい、という予感があるとしか言いようがありません。


こういう自問をすると、思いつくアイデアが何であれ、毎回、
「どう言いつくろおうが、自分は根本的に人間を信じることができないから、どんなプラスの温かいフィードバックをもらっても、心に響くことはあっても、魂に響くことはない予感がするんだよね。
予感が当たっているかを確かめるため&その程度の充実感の為に、他の選択肢を捨ててまで選ぶ理由はないよ。」   
になります。


相手の感情を読みすぎるのも問題なんだろうけど、これは体質のようなもので、
味覚音痴になればファストフードも美味しいよ」と言われても、敏感な舌の持ち主には無理な話なのと同じかも。

そうやって、無理に「自分でない何者か」になろうとして不毛な努力をすることからはさすがに卒業したしなぁ。

どうするのかが見えずにモヤモヤしていますが…実生活をまわすだけでもかなりの労力が必要なので、「わんことまったり暮らす」だけで、十分なのかも、と思ったり。ぐるぐる思考しています。

                          その前に、断捨離してわんこを迎える準備をしないとね?