シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

極夜行 角幡唯介著 その2

その2 本からは離れたACな自分の独り言です。

闇によって視覚情報が奪われることで、己の存在基盤が揺るがされる感じ。普段の生活で意識せずに享受しているがっちりとしたゆるぎない世界から浮遊し、漂流している感じ。それらの感じから感じられる己の命の儚さや心もとなさ。ここにこそ極夜世界の本質はあるのかもしれない。
 歩きながら私はこんなふうに考えていた。
 人間が本能的にもつ闇にたいする恐怖は、・・・(中略)・・・単純に見えないことで己の存立する基盤が脅かされていることからくる不安感から生じるのではないだろうか。

中略

その恐怖の本質は闇そのものにあるのではなく、自己の内部で漠然と構築されていた生存予測が闇によって消滅させられてしまうことにあるのだ。

著者は、光があって「見える」と、自分の立ち位置、周囲との相対的な差なども分かることで、自分の存在を確かめられるし、次はあそこへ行こう、などという具合に、今後の予定も考えられるようになる(未来がある)。
・・・という趣旨のことを(私の解釈違いでなければ)言っていて、「ACな生きづらさ」は別の言い方をすればこういう事なのかもしれない、と思いました。


人は他者からのフィードバックを受けて、自分が存在しているとか、こういう考えだとか、こう感じているようだとか、それは自分の属する社会ではどう評価されるかとか、知覚して、「私は存在している」感覚を得ている面が大きいそうですが、それはここでいう「光」にあたるもの。

程よい、まっとうな光がなければ、自分がどういう存在なのかや周囲の状況をありのままに見ることができず、世界は「ゆるぎないもの」にはならないし、存在基盤が揺らいでいる不安定さ、不安感は湧くし、未来予想も展開しずらくなるので、生きること自体の恐怖が大きくなるのかな…。

まぁ、こじつけではありますが、ACに育つということは、そういう事なんだと別の言葉で表現してもらった感じがしました。
他の人にははっきり見えている世界も、暗くてぼやけていたり、部分的に霞がかかって歪んで見えたりしていて、「何かが違う感じはあるけれど…」というはっきりしない不安定さの中を漂っている感じがすることがあります。

著者は極夜探検を通して、日頃身を置く盤石な存在基盤から離れたわけですが、別の形で存在基盤から離れ浮遊している人は世の中に沢山いるんだな…そういう人から見ると世は闇だし、未来予測が立たない(立てるのが難しい)し、自分が今いる場所は恐怖の場になってしまうわけか…と妙に納得しました。

浮遊する私は、どうすれば光のある場所に辿り着き、盤石な存在基盤を感じられるようになるのでしょうか?