シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

私が「普通の人」だったころ

子供の時から周囲との大きな違和感・疎外感を感じていたわけではないので、いつ頃から変わったのか思い出してみました。
転機は、やはり毒親問題の浮上。
どう考えても、今の日本社会の普通「子供は老親を助けるものだ」をやれないぞ、になり、自分の中に、「当たり前」としてあった価値観を捨てるしかないともがいて、ぐるぐると同じところを回り続けたあの時間。

「子供は老親を助けるものだ」「一部の例外を除いて、軋轢はあっても親は子供を愛し、幸福を願っている」というのが植え付けられた思い込みなら、他の価値観はどうなのよ? という素朴な疑問と、

中年の危機な年齢になり、「人生後半戦どうしよう」の当事者になったこと、

パート先が買収されて「私にとって働くって何?」が迫ってきたこと、

色々重なって、立ち止まって考える癖がつきました。
ある意味面倒くさい奴になってしまった…そうしないと、毒親問題を処理できなかったからなんですけど。
参考にしたくて、同年代や人生の先輩方はどうしているんだろう?と見回してみても、意外と参考になる人が見つからなくて、「あれ?」と違和感を感じている…が現状かも。

例えば、価値観違っても、「中年の危機」を通過した人には、こういうこと教えてもらるんじゃないの? が実際はそうじゃないことが多いです。

「老後資金をどう考えていますか」とか、「あなたにとって愛犬とは?」などは、参考になるお話が聞けるのですが、多くの人にとっての「当たり前の前提」を一度は自問した上でのそのお考えなのですね、という人がとても少ない感じがして、「あまり参考にならないな…」になってしまいます。


自分もねじれた親子関係にぶち当たる前は-現実逃避でしのぐことが出来ていた間は-「当たり前の前提」を検証することはなかったです。
高校までは、「将来の夢は特にないけど、成績がいい方が選択肢が広がるよね」で勉強し、
「今の日本で女性が生きていくには、やっぱり”手に職”でしょうよ」という安全志向で進路を選び、
「お金はあった方がいいけど、沢山は働きたくないんだよね」で深く考えずにパートを選び・・・
子供なしの人生 以外は、”何となく”で選んでいました。

10代、20代で、「自分は世の普通の人(多数派)の当たり前ではやっていけない」現実にぶつかって、折り合いをつけてきた人から見ると、30代までの私は甘ちゃんだっただろうな、と思います。
実際そうだったし。

一生甘ちゃんで行ければ、ある意味幸せだったのにな~、出来ればそうしたかったな~と思う時もありますが、もう別のフィールドに移住してしまって、戻れません。
新たにやってきたフィールドで周りを見回すと、思っていた以上に「仲間」や「先輩」がいなくて、心細くて寂しい・・・が現状かも。

表面的な生活の場は、「普通の当たり前で生きていける・生きている人たちが多数派のフィールド」のままだから、自分が迷い込んだ異邦人のような気がするのかな…。
自分は「普通の人(多数派の一人)」と思って暮らしてきた時代があって、あの感覚を知っているから、あの安穏さへのノスタルジーがあるんだろうなぁ。


今はこの違和感の置き所を見つけるのも一つの課題です。