シンプルライフへの遠い道

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消えたい 高橋和巳著 その2

副題:虐待された人の生き方から知る心の幸せ

この本は私が「普通の人とはOSが違う」と言っていることを、別の表現で説明していて、凄くしっくりきました。
私がここでいう「普通の人」というのは、”精神的にそこそこ健康で、愛着関係を作ることが出来る人たち”です。

普通の人は、社会的存在であることを日々確認して、自己の存在の一貫性を保っている。人とのつながりの中である役割を引き受け、日々それを確認しているから。(役割の中には自分は望まない、嫌なものがあるにしても)

社会的存在を作るのは「感情の共有」と「規範の共有」の二つの要素。
普通の人は親との愛着関係の中で、この二つを体験し、学び、身につける。
思春期には、親から教えられたものを再吟味する。
やがて、信頼感(感情の共有)と社会的規範の内面化(規範の共有)の二つが心の中に完成して、社会的存在が確固たるものになる。

被虐待者は、「感情の共有」がないかすごく弱いので、「規範の共有」だけで生きていて、社会的存在が薄い。あるいは、ない。

この二つの存在の位置関係の説明が興味深かったです。

普通の人のいる円がある。
多くの人がそれが全てだと疑わない世界。毎日、そこそこの幸せを感じ、それを他人と比較していき、自分が「いる」という社会的存在を確信している世界。感情と規範の共有があって、安心が保証されている「心理カプセルの内側」

その外側に、「辺縁の世界」がある。
被虐待児が生まれながらにはじき出された世界。自我や社会的存在は曖昧で、自分が「いる」ことをいつも疑問に思っている世界。自分の人生を他人と比較せずに、そのままに感じられる世界。
普通の人が哲学するときに「普通の世界」と対比させる世界。

更にその側には「宇宙」がある。

普通の人は、日頃は辺縁の世界は見えず、心理カプセルの内側と宇宙しか見えない。
被虐待者は、自分のいる辺縁の世界と心理カプセルの内側の境界も見えているので、内側には多くの人が生きている安全な世界があって、自分ははじき出されており、己の背後に宇宙があるのを知覚している。

心理カプセルの内側にも、辺縁の世界にも、ベースとしてあるのが「生命的存在」
生まれてきたから、ただ生きている(存在する)という絶対的存在。
これを意識した時出てくるのが、
自分の存在は何だったのか、なぜ自分が生まれてきたのか、自分はいたのか、  という問題
普通の人は余命宣告をされるなど自分の死を自覚した時などにだけ意識するが、被虐待者は、社会的存在が不安定なので、この「生命的存在」も時々見ている。


今の自分は、基本的に辺縁の世界にいて、時たま心理カプセルの内側に行くこともある、でも、いつ行くかはコントロールできない感じです。

「生命的存在」をどういう時に意識するのかの話も、「だからか~」と納得できました。
私はわんこを看取る前から、自分がACだと気付く前から、少なくとも20代のころには、生命的存在のことが頭の隅に引っかかっていて、知りたいことの一つだという自覚がありました。社会人になると、どうやら世間の人はこういうことは「議題としてある」ことは知っていても、関心は低いようだ、と分かりました。
でも、どうして関心を向けずにスルーして平然としていられるのかは分かりませんでした。
私にとっては、「老後資金どうしよう」と同じレベルで一大事なのにな~ な感じでした。
普通の人は、そもそもこれを議題として知覚することもほとんどないから、気にせずにいられるんですね。で、自分が余命宣告を受けたり、高齢になって、死の予感がしてくると急に気になり始める。
なるほど。やっと腑に落ちました。
私にとっては、自分の存在を少しでも確かにして安心するために知りたいこと、なのですが、皆がそうじゃないらしい。


もう一つ、「世の多数派の人たちは、どうしてこうも他人と比べたがるんだろう?」と不思議でしたが、謎が解けました。
心理カプセルの内側にいる人たちは、他人との相対的な距離を測って自分の座標を把握して安心するのですね。
私も他人と比べて自分はどうだろう?とよく考えますが、自分自身の存在があやふやなので、他人と比べたところで自分の座標をしっかり把握して、「自分はここに立っている」と確認するのは無理だと最近分かってきました。
なので、比べるのは私にとって重要度が低いです。自分がどう思うかの方が大事になってきました。

私が他人と自分を比べるのは、自分が変なことをして極端に浮いているんじゃないか、そのせいで社会から排除されて、居場所がなくなる(=野垂れ死にする)んじゃないか、という心配を払拭するため。
「安心を得る」という意味では同じかもしれませんが、「自分が何点か知りたい普通の人たち」と、「自分が赤点じゃないかを確かめたい私」くらいの隔たりはあります。
赤点じゃなければいい。
細かいところは、採点基準に左右されるし、その時の周りの価値観でも違ってくるし、あの人より上だ下だとこだわっても意味がない。全くないわけではないですが、自分のリソースを投下する価値は低いです。


長年抱えてきた違和感の正体を説明してもらった感じです。

私が心理カプセルの内側の住人になるのは難しそうです。
少しずつ、行き来できる頻度が上がればラッキーくらいに構えているのがいいのかも。
多数派の普通の人たちと自分が同じOSになる日は来そうにないです。
開き直って、「私は私」でやるには、今の方がやりやすいかも、と考えよう。
他人と比べて自分の座標を確認する必要性が低いから、普通の人より楽にマイペースでいられるはず。

自分が「辺縁の世界の住人」でなくても、「死」という一大事業が気になる年齢になると、価値観が変わる人も多いみたいですけど。

まぁ、私は私の道しか歩けないから、ゆるゆると行けるところまで行ってみよう。