シンプルライフへの遠い道

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消えたい 高橋和巳著 その1

副題:虐待された人の生き方から知る心の幸せ

多数派の人とはOSが違う感じで違和感があるし、多数派の人たちの感覚を理性である程度、想像・理解はできても、共感して納得するのは難しい。そんな自分の状態と、どうしてそうなったかが分かりやすく説明されていました。
私にとっては、目から鱗の一冊。

この書名「消えたい」も、被虐待者は「死にたい」じゃなくて、「消えたい」と言うことを日常の診療なのかで体験してつけたようです。(著者は精神科医

著者は、よく言われる子供への虐待(身体的虐待、ネグレクト、性的虐待、精神的虐待)の他に、「精神的ネグレクト」を挙げていて、あぁ、私が受けていた虐待はこれも沢山あった!と、名前を付けて定義してくれたことに感謝の気持ちです。
子供が高熱を出しても気づきもせず、病院に連れて行かないのが「ネグレクト」
病院に連れては行くけど、「具合はどう?辛くない?」という声かけがないのが「精神的ネグレクト」

よくやられたなぁ。病気の時、毎回だった気がする。凄く心細くて、悲しかったです。
私が辛くないか、苦しくないかを気にして労わってもらった記憶が本当にないです。
病気かどうかは私がどう感じているかを聞いて確認するんじゃなくて、親が観察して分かる症状があるか(咳が出ているとか、嘔吐したとか)、体温が高いなど数値で出るものしか指標にしてなかったです。
死ぬような病気じゃなければ、薬を飲ませて寝かせておけばいい・・・というスタンス。
心細くて甘えると、嘲られたしなぁ。
気が付けば、「私が感じる快・不快に関心を持って欲しい」と思うこと=わがままだ、と自分でも思いこんでいました。こういう自分に気づくと、切なくなります。どんなに心細い思いを何度も何度もしてきたんだろう・・・子供時代の自分が可哀そうになる。
心がきゅーっと縮む思いをした辛さも、「親を捨てるって言っても、自分が子供時代にされたことをそのまま返しているだけで、”復讐”ですらないわ」と思う根拠にするくらいしか役に立ちません。
あの時の心細さの延長に、「親の機嫌を取らないと見捨てられて死ぬ」という思い込みもあります。


「自我同一性・社会的存在」を作るには、安心をベースに、「感情の共有」と「規範の共有」の二本柱が必要なのだそうです。毒親育ちは感情の共有があまりできず、理性で理解している規範の共有に偏っているのだそう。だから、感情と規範の共有が安心感や信頼に育たず、規範はただ自分を縛る義務になるのだとか。

あぁ、中学の頃には自覚していた、「とにかくルールを守る」を最優先するやり方は、こういう風に私に染みついてしまったんだなぁ・・・。

自分が感じていることを言語化して他人と共有・共感する術を、親に教わることが出来ずに育てば、共有以前の問題「自分の感情・感覚を認知すること」から不自由が出てきます。
親に都合の悪い感情は黙殺するよう強要されることが多いと、「自分はどうやらこう感じているような気がするけど、”こう感じていいんだろうか?”」と、かなり不安定にもなります。

「生きづらさ」はこうやって作られてしまうんだなぁ。

                                                     その2へ続く