シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

ちゃんと親に話していたんだろうか その3

あの人たちとのコミュニケーションは断念するとして、
だからと言って、先日読んだオウム真理教の菊池直子さんの手記の

この体験を機に、私の中で世界の見え方が徐々に変化していきました。この世の現実というのは、心が作り出しているのではないかと思うようになったのです。親との関係で言えば、「親にわかってもらえない」という現実が先にあるのではなく、「傷付きたくない」「どうせわかってもらえない」という否定的な想念が先にあり、その想念が心に壁を作り、その壁が言葉を遮断し、言葉を発しているのにもかかわらず「伝わらない」という現実を生み出していたのではないかと思ったのです。

この文章が私の現実と交差しないかというと、そういうことはありません。

こちらが不信感を滲ませていれば、相手も警戒するし、「それなら早く去ってよ」と思われても仕方ない面もあります。
こちらがニュートラル・オープンでいれば、コミュニケーションが取れる相手が増えるのは現実です。少なくとも、私の体験では。


体感したのは医療関係者との関係。
これも特に母親の態度が原因で、私の認知はかなり歪んでいました。

・体温や検査結果、咳が止まらないなど傍から見て明らかにわかる症状がないと、いくら私が肉体的に辛いと感じていても「病気」とは認めてもらえず、苦しい状態に放置される。場合によっては仮病扱いされて苛められる。

・治療・療養が必要かを最終判断するのは、当人である私ではなく他人(母親)…医療関係者?

・相手の機嫌一つで私は見捨てられ、治療を受けられず長患いして苦しむ or ひどい場合死ぬ

自分の認識がおかしいとはっきり自覚できたのは、「もし子供を産んだら?」と思った時。
赤ちゃんは定期的に検診があったり、母親が育児の相談をする機会がある(らしい)のですが、そのたびに、私がどんなに頑張っていても、保健士さんや医師から嘲られ、母親失格の烙印を押され、酷く惨めな思いを必ずすると思い込んでいることに気づきました。だから子供は要らないと思ってすらいたのです。
・・・それまでの人生で私を理不尽にあざ笑ったのは親だけなのですが。




自分の歪んだ認知に気づいても、すぐに変わることはできませんでしたが、少しずつ自分に言い聞かせて変わろうとしました。

・私が住んでいる場所だと、いくらでも病院があるから、気に入らない(合わない)医師の病院には行かなければいい。

・自分も薬剤師(医療関係者の端くれ)をしていたので分かりますが、医療関係者はそれほど患者のことを気にしていない。
 ”患者”としては気にかけても、「何だか合わないオーラ出ているから、苛めてやろう」などと考えるほど暇じゃない(まれにそういう人もいるので困るのですが)。

・自分でも「この位は言っても大丈夫だろう。ダメなら明らかに相手がおかしい」と思えることを言うことから始める。

などなど・・・そうやっているうちに、最初は苦手だったかかりつけ病院の男性医師(いつもは女医さんに診てもらっています)とも普通に話せるようになりました。

私がおどおどして、自分が言いたいことを言えなかったり、「どうせ通じない」という思い込みが相手にも伝わって、コミュニケーションが取りにくくなっていなんだな…と思います。

その後、手術のために数日入院したり、日帰り手術を受けたりもしましたが、その時も、色々なタイプの医療関係者と会いましたが、大丈夫でした。
別に嫌な目には遭いませんでした。基本、皆さん親切で優しい。多くの医療関係者は患者を助けたいと思ってその仕事をしているわけで、こちらがニュートラルでいれば大抵は問題ない。


親はもちろん、色々努力しても「もうこの人とは通じない」判定が出た場合は別にして、基本的には、ニュートラルにオープンに接すれば大丈夫、と自分を励ませるようにはなりました。
現実はそうですから。




こうして何とか歪んだ認知をやり過ごす技術を身につけて思うのは、
こんな変な思い込みを自然にしてしまうほど、親(病気に関しては特に母親、父親は無関心)の態度は冷たかったんだな、いつも見捨てられ不安、嘲られる不安を抱えて生きるように育てられたんだな、ということ。
それなのに、親身になって老い先を心配してほしいなんて、ちゃんちゃらおかしいわ!
                    

ニュートラルでいようと努力を続けることと、親の言動が原因で自分が歪んだことを自覚して親に近づかないことは、車の両輪です。

すぐ、世の「親教(親は全員わが子を愛している、という大ウソ)」の影響を受けて、「まだやりようがあるんじゃないか」などと考え始めてしまいますが、それは結論が出ているでしょ!と自分に言い続けよう。
頑張れ、自分。

親に近づきつつ、自分の回復を図るのは自分にはできないと十分学んだのですから。この論点を蒸し返すのは止めよう。