どうやらアイデンティティー混乱の問題が絡んでいるようです。
別の形では自覚がありましたけど。
アイデンティティーは本人の捉え方ではありますが、社会・人間関係の中で作られるものでもあります。
私には「主婦」「妻」「手芸教室の生徒」「友達」「日本人」「女性」など、色々な役割(アイデンティティー)があります。
ある人との関係のアイデンティティーを考える時(例えば「妻」)、私は「妻」だと思っているのに、夫は「この関係は終わったから、もうお前は私の「妻」ではない」と思っている場合、その不一致が、私に混乱をもたらすでしょう。
ですが、離婚せず、同居が続いていて、周囲が知るところとなる夫婦間のトラブルがない場合、周囲(世間)は私を「妻」と扱うので、まだ、自分と世間の感覚に縋って、「妻」の場所に留まりながら、
「私は”妻”だと思っているけれど、夫は違うと考えているらしい・・・この変化は事実か?対応が必要か?対応可能か?納得できるのか?新しい自分のアイデンティティーは何か?」と新しい状態に対応しようと試みることが出来る・・・可能性はあると思います。
私の親子関係の場合、これが難しい。親と世間が同じ意見で、私だけが違う見方をしていて、それが固定化したままで、変化の兆しはなく、変化は期待しにくいからです。
私は、「彼らは生存してはいるけれど、私の「親」はいない」現実を受け入れて、「心の親のいない自分」というアイデンティティーを持とうとしているのに、上手くいきません。
それが居心地の悪さや、いつまでも毒親問題を引きずる一因のようです。
自分と周囲の不一致が大きすぎて、自分が出した結論(新たなアイデンティティー)の置き場所がないのです。
私は、「終わっている、そもそもなかった関係」として、”絶縁”を選んでいますが、
親は、私が関係を断っている、断とうとしている、少なくとも娘に嫌われている、親子関係にトラブルがあることすら認めず、「何やら娘が拗ねているようだが、親子なんだから、いつでも修復可能。根の部分では温かい絆で結ばれている」と信じている風です。そうでなければ、ああいう言動は出来まい。
周囲の人(姉を含めた身内、友人・知人、見聞きする他人の考え)は、一部の人を除いて、未だに親教の信者です。
「親子は温かい気持ちでつながっているもの。家族のきずなは素晴らしい。子供は老親の世話をするもの。何かの時には団結して助け合える関係。」
この問題の解決には、親が絶縁の事実を認めることが一番ですが、それは無理でしょう。それが出来る彼等なら、「親子関係に問題があるから、解決しよう」や「放置して、子供に頼らない今後・自立を模索しよう」などの新たな道を選んでいるはずです。
親の捉え方が変わらないなら、周囲の理解を増やして、新たなアイデンティティーの置き場所を作るしかないのですが、これもなかなか難しい。
以前に比べれば、「トラブルを抱えて、プラスのつながりを失っている親子が沢山いる」ことが認知されてきてはいますが、「あなたがその一人なのですね。それが現実なら、それでいいんじゃないですか。」と認めてくれる人は少ないです。
理屈では、「自分で絶縁すると決めて実行していて、当事者の夫がOKと言っているなら、それでいいでしょ?」ということになりますが、気持ちの落としどころとしてはそうは簡単に行かないのが難しいところです。
以前、佐野洋子さんが言っていた言葉を思い出します。
「自分ががんになったことは辛くない。「私はガンなんです」というと、周りが同情して、優しくしてくれるから。母子関係のこじれを表現することすらはばかられて苦しかったことに比べれば、がん患者でいることは居心地がいい。」
という趣旨のことを言っていました。
がんで死ぬことがあるけど(実際、佐野洋子さんはがんの転移で亡くなったそうです)、母子関係のこじれが直接の原因で死ぬことはないのに、がんの方が楽だという。
これは、自分の在り様(アイデンティティー)を周囲に受容されるかどうかがとても重要だということの例だと思います。
私も佐野さんの気持ちにはすごく共感します。
親や周囲が変わることに期待・依存しても自分が辛いだけなので、この状態のあしらい方を何とかするしかないらしい。どうすればいいのか、さっぱり分かりません。