シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

死を待つ待合室

とある本に、深い悲嘆にある人の中で、悲しみと共に生きていけるようになっていく人と、人生を「死を待つ待合室」にしてしまう人がいて、その差は何だろう?という死別悲嘆の研究者(心理学者・カウンセラーでもある)のつぶやきが紹介されていました。

わんこを亡くす前は、悲嘆の中に留まるのは辛いだろうから、時間はかかっても、折り合いをつけて生きていけるようになる方が望ましいんだろうな・・・と思っていました。

今は、「本人にもどうにもならない」と思うようになりました。

現在コントロール不能なだけでなく、この先気持ちがどう動いていくのかも、本人にもよく分からない。
今は参考になる情報もある程度あるし、体験談も沢山あるので、こういう人もいるとか、おおむねこういう流れなんだろう、ということは分かりますが、自分が当てはまるかは分からない。

「こういう考え方をする人の方が悲嘆と折り合いをつけやすいようだ」と聞いて、それに納得できても、自分がそうなのか、そうなれるのかはまた別問題・・・。

辛いなら、変化することだけは(さらに苦しくなるのは嫌だけど)諦めずにいることくらいしか方法がない気がします。何もできなくても、半歩自分から離れて、観察する視点を持つ、という意味で。



もういい加減立ち直る時期でしょ? のように、他人の気持ちの在り様にまで平気で口出しできる人の図太さはどこから来るのだろう・・・。
沈んだ様子の人を見て自分が不愉快・不安になるのが嫌だからなのか、自分がその場を立ち去るのではなく、相手に変われと強要できるあの厚かましさは何なのだろう。
若い人なら、経験がないからかな? と思えるけれど、年長者がこうだと、「あなたは人生で何を学んできたのですか?」と聞いてみたくなります。


それよりは、死を待つ待合室以外に居場所がない状況にある人に親近感を感じます。





今月になって、わんこロスは少し落ち着いてきたかな?という感じはしています。
泣かずに済む日もあるから。
何事も揺り戻しはあるし、様子見です。