シンプルライフへの遠い道

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「悟り」は開けない 南直哉著

「悟り」には以前からすごく興味があったので、読んでみました。

20代ごろまでは、「悟り」とは、煩悩から解放された精神状態だと思っていました。どうやらそれは違うらしい。「悟りを開いた」とされる人にも煩悩あるじゃないの。煩悩が全くない状態を維持できるのはもはや「人間」じゃないよね(だから、そういう人は存在しない。”自称”している人はいるようだけど)、ということに気づいてからは、更に「悟り」は謎な状態。

座禅や瞑想を極めれば到達できるのか?
そもそも特定の心身の状態を指すのか?  さっぱり分からない。


著者(曹洞宗の禅僧)によると、座禅で特殊な心身状態に入ることは可能だが、それは「悟り」ではない、とのこと。
一言で言うなら、「決して完結しない修行」。自分の日ごろの考えに引き寄せるなら、「試行錯誤を続ける」に近いのかな。勿論、その”目指す方向”が重要になりますが。
生まれた理由も、生きる意味も、死とは何かも・・・何もかも訳の分からない状態、解体していくと曖昧模糊となっていく”自己”、他者から規定される”自分”・・・そういうわけのわからなさを引き受けるのも一つの目指す境地なのかな、と感じました。
う~ん、言葉にするのは難しい・・・ということは、まだよく分かっていないらしい。


後半の実生活への提言は私にも分かりやすく、共感できるし、やってみようと思えること満載でした。
まず、人間関係を「政治」と考えるところ。力関係、共有する問題、問題解決に必要なこと・出来ることは何かのすり合わせ、仕事の分担、約束の履行・・・そうそう。これですよ。これを「愛情」で誤魔化すからおかしくなるのです。問題を「愛情」の問題にすり替える時の殆どは、強者が弱者に負担を押し付けて甘い汁を吸おうとしていると思って間違いない(著者はここまでは言っていませんが、私はそう思う)。
それでないなら、「見たくない弱くてずるい自分を見ないための方便」。
その上で、「政治することを休む」も取り入れる・・・このスタンスは自分にも使えそうです。

他者に支配されるのではなく、他者に己をひらく、と著者は言っていますが、これは先日読んだアフリカ零細商人のスタンス「誰も信頼しないことによる、誰にでも開かれた信頼」に通じるな、と思いました。

上手くまとめられませんが、「悟り」とは、”何もかも訳の分からない存在である自分(そもそも存在するのかもあやふやな状態)”も含めた、色々な”訳のわかなさ”をそのままそこに置いておく・受け入れる覚悟をして、実践を伴っている状態 なのかな?と思いました。
全ては変化していくので、常にそれを更新していくことが「決して完結しない修行」なのかも。


この著者の別の本も読んでみたいです。もうちょっとでつかめそうで掴めていない(笑)