副題:打ち負かされた者の克服の試み
1940年に敵性外国人として逮捕され収容所に入れられたのち、脱走して、レジスタンスに参加。
1943年に再逮捕。拷問と独房、アウシュビッツをはじめとする収容所を生き延びた人。
この本は、収容所体験記ではなく、著者が自分の体験を通じて考えていることが綴られています。
私は機能不全家庭(家族という名の強制収容所、とも言う)で育ったので、同じ系統の過酷な体験をした人がどういう風に考えているのか、何か参考にならないかな~という思いで、この手の本を読むことが多いです。
肝心の感想ですが・・・消化しきれていなくて…というより、私が消化できる日が来る気がしないといいますか…文章が難解なわけでも、全くなじみのない文化や価値観を背景にしているので理解不能というわけでもないのに、全体を把握してまとめることが出来ません。
そこを敢えて”ACな自分”に参考になったところを頑張って挙げてみると・・・「自分の考えはそれとして持っていてよい」ということでした。文字にすると恐ろしく陳腐ですけど。
直接の感想ではなく、読後感じたことです。
無理やり、自分のわずかな経験にすり合わせて解釈すると、加害者やそれに味方するもの(本人がそう意識していなくても)は、事件そのものの時は、「お前が悪い」なのは言うまでもなく・・・、その後も「過去のことだ」だの、「償いは終わった」だのと言って、こちらに起こったことや一見混乱して理不尽に見える被害側の気持ちや事情は矮小化したり無視したりする。
人は見たくないものはなかったことにしたいから・・・?
そういう声に惑わされて、「私の感覚がおかしいんだろうか」「私の精神レベルが低いから、いつまで経っても囚われている。これは”わが身に起こったこと”の問題ではなく、”私の性根の問題”?」 と、自分を疑い始めるのは愚の骨頂だということだけは、この本を読んでいてはっきり感じました。
自分の心は、自分のもの・・・これだけは死守すべし、です。
”ACな私を作った数々の事件やその時私が感じたこと”は、今後も「理解してくれる人が多数派」になることはないでしょうから、この件は他人が私を、独りよがりで執念深く、妄想交じりと思おうが、「自分が知っていることが私にとっての真実(極論すれば、それが客観的事実かは裁判を起こすわけではないのだから、どうでもいいこと)」という基本を根幹に置きたいと思いました。
この点でふらつくと、自己否定の蟻地獄に落ちますから。少なくとも、私を批判する”多数派”は助けてくれないし。
うまくまとめられないので、一番印象に残った部分を引用して終わります。
「拷問された者は二度とふたたび、この世にはなじめない。屈辱の消えることはない。最初の一撃ですでに傷つき、拷問される中で崩れ去った世界への信頼というものを、もう二度ととりもどせない。・・・中略・・・不安、さらにはルサンチマン(怨念)とよばれるものが残る。ただ残るだけだ―密度をまして報復に燃え、報復のはての浄化の機会をもつこともなく。」