シンプルライフへの遠い道

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「ふつう」は多数派の横暴なのか?

先日NHKでやっていた発達障害についての番組を見ました。
当事者が、「ふつう」にやれって言われるけど、「ふつう」って具体的にどういう状態?と聞いても、言語で説明してもらえない、と言っていました。
「ふつう」でないのは劣ること、理解不能のこと、努力・能力が足りないこととして扱われるので、発達障害の人がウツになったり心を病むことが多いそうです。
二次被害。マイノリティが二次被害で心を病んで、ますます社会生活が送りにくくなるって、あらゆることで起こっているな~。これ、嫌だ。


ですが、自分の経験を掘り起こしてみると、単純に、「お互いに理解しあって、やっていこうよ」と理想論で流せないな…とも思います。

パート先に、今思えば、「発達障害だったのかな?」という人がいました。
こなせるようになった仕事を、指示しないとやらないのです。
「作業Aが終わった書類は、棚Bから棚Cに移動させておく」程度の簡単なことでさえ。
”ふつう”は仕事の流れを覚えたら、いちいち言わなくても、勝手にやってくれる作業なのに、しない・・・でも、仕事をやる気がないわけでもない・・・だんだんイライラしてきて、申し訳ないけど、その人が辞める直前は無視していました。
最低限の礼儀は守って挨拶はするし、冷たい対応はしないのが精いっぱいで、その人に仕事を頼まなくなりました。
いちいち言うより自分でやった方が速いんだもの・・・それに、教育は短時間パートの私の仕事じゃないし。
ご本人は、どうして自分が職場で浮いて退職することを繰り返しているのか、分からないようでした。(前の職場も、「あなたに仕事は任せられない」とクビになったと言っていました)

本人も周りも「なにか決定的なところで頭の回路が違うから、上手くいっていない」ことは分かるのですが、どうすればいいかもわからないと、解決の見込みがないわけで、「使えないあの人のせいで、自分の負担(仕事量)が増えるのに、あの人と同じ時給ってどういうこと!!」という怒りが、「辞めてくれ」になるのにさほど時間はかかりません。
でも、こういう時「辞めてくれ」と思うのが悪いのかな。自分たちと違う人は排斥するのか?と非難されても、実際に不平等(こなす仕事量と給与のアンバランス)が発生している以上、仕方ないんじゃないの?と思ってしまうのです。
少なくとも、末端の従業員の工夫や忍耐に期待して、放置しておけば何とかなるレベルの話ではないです。

これが「社会の無理解」「多数派のやり方の押し付け」と言われればその通りです。
発達障害でなくても、人によってやり方も考えも違うので、コミュニケーションを取りながらすり合わせて何とかやっているわけですから、その「摺合せ」を工夫すればいいんじゃないの?というのも頭ではそうだと思うのですが、前提に「発達障害があるから、コミュニケーションに工夫が必要なことをお互いが理解している」がないと、多数派の”ふつう”の押し付け=従業員教育なのが現実。

この現実が、発達障害の人を追い込んでいるのもおそらく事実。

う~ん、難しい問題です。

自分にとって大切な相手なら、コミュニケーションを取るためにエネルギーを沢山割いて、出来るだけお互いが満足できるようにしたいと思いますが、私は、職場の薄い関係の人の為に、限りある自分の精神エネルギーを沢山注ぐ気はないです。
事前に分かっていて、「こういう風にするとお互い通じそうだ」という手掛かりがあれば、もちろん努力しますが・・・”いい方法さがし”の試行錯誤からは、実際にはやらないだろうな・・・。

相手が自分の接し慣れた多数派思考回路ではないからと言って、「劣った人」とは思わないけど・・・職場だと「対応に困る避けたい人」になってしまうのは、今の私の限界点です。