シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

より少ない生き方 ジョシュア・ベッカー著

ミニマリストの著書で、「物・事の減らし方」「ミニマリストになるメリット」「継続の方法」「ミニマリストになることで生まれた時間や労力をどう使うか」などが書かれています。

日頃から片付けやミニマリストの著書・ブログを読んでいるので、大筋は、「やはりこの著者もこう感じているのか」という確認な感じでしたが、「試してみる」は、優柔不断な私に合っているからやってみよう、と思いました。

例えば、手放すか迷ったものを一定期間目につかない場所に移動させておき、その間使うかどうかを見極めてから決断する、など。

これは、「あまり気が乗らない集まりに出ない」を三カ月試す、などにも使えるな、と思いました。
「ずっと行かない」と決めなくてはいけないと思うと、「そのせいで大事な人間関係まで切れてしまい、後で後悔したらどうしよう」と迷いが出やすいですが、期間限定なら、誰でも忙しい時期に不義理することはあるさっ、と相手に説明せずに付き合い継続に戻すこともしやすい。



著者は、ミニマリストになって出来た余力を他者のために使おう!と熱心にお奨めしていますが・・・ACな私には主張の正しさは分かるだけにしんどかったです。

私も、相手が笑顔になってくれたら嬉しいし、余程嫌いな人・怨みのある人でなければ、幸せになってほしいと思うし、私のちょっとした手助けが相手の幸福度を上げるなら、余力のある時に手を貸すのはやぶさかではないです。
でも、一歩踏み込もうとすると、嫌な出来事を思い出します。

母親の孫子守りを手伝ったら、つけあがった母親は「(自分が楽できるように)仕事を休んで手伝え」と言ってきた。

私が自主的に出産前後の姉を手伝っていたのに、いつの間にか、親は私を自分たちの代わりに姉宅に派遣している気になっていた。(母親から私がもらった、”本当なら自分がするはずの手伝いをやってくれてありがとう”小遣いを、私が姉宅に行く交通費に充てていたら、知らない間に親の解釈が変わって、「交通費は足りているか?」に。私は親の”派遣社員なのか??”)

こういう親に不当に扱われた・・・私の意思を無視して勝手に解釈・扱いを変えられたエピソードもいくらでもあるので、その場限りのサポートは出来ても、どんなに簡単なことでも、継続して、となると、「相手が私の了解なく、勝手に、私の分担・負担を増やして、不当に利用されるんじゃないか。」と恐れと不安が生まれます。
それが嫌で、踏み出せません。
出来る範囲で、誰かの役に立てたらいいな、とは思っているので、踏み出せない自分を自己嫌悪。

「まずは自分を幸せにすることから」でいいと思っているし、著者も自分を犠牲にして他者に尽くせなんて言っていないことは十分理解しているのに、ちょっとしたことでACな自分が顔を出します。
自分を理解するには、こういうサインを感じることが出来るのはいいことなのでしょうが、しんどいのも事実。


ミニマリストの本を読んだのに、「ACな自分」との付き合いはまだまだ続きそうだ、が感想になってしまいました。