シンプルライフへの遠い道

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AIDで生まれるということ  精子提供で生まれた子どもたちの声

少なくとも父親とは合意の上で絶縁し、自分の人生に集中していいはずが、いつまでたっても親へのこだわり(未練?)の抜けない私。
この”親へのこだわり”の正体は何だ? という疑問への答えのヒントになるかと読みました。

そうと知るまでは、自分の遺伝上の父親と育ての父親が違うと知らなかった人が、親に対してどう思うんだろう? どうやって気持ちの整理をしているんだろう?と思ったのです。

育ての父親が目の前にいるんだから、遺伝上の父親にはあまり興味を持たない人はいるんだろうか?
どんなに手間暇をかけてでも、遺伝上の父親を探そうとするんだろうか?


「自分がどこから来たのか」という、自分の存在の根本的な由来を知りたいという基本的な欲求が、「自分の親がどんな人か知りたい」ことなので、育ての親と遺伝上の親がいたら、両方のことを知りたいと思うのが自然なようです。(わが身に振り替えて考えると、自分もそうだと思います)
それなら、
「自分をこの世に生み出した人たち」に肯定され、存在を受け入れられたいとか、自分が来たところ=親とのわだかまりを解決したいと思うのも、DNAに染みついている欲求なのかな・・・?
だから、親が死んでも、親へのこだわりが薄くなって、「あぁ、ああいう人たちもいたね。」にはならないんだろうな、
                                                    と感じました。



それとは別に、生殖技術を使って生まれた人たちの気持ち・人生を考えずに、是非を考えていたな、と大いに反省しました。

もともと、私は代理出産には反対でした。代理母の負担・リスクが大きすぎるからです。
ボランティアでやるにはリスクが大きすぎ、有償でやるのは、女性を「産む機械」扱い・・・人扱いしないことになるからです。
「納得して、その報酬で引き受けたんでしょ」と言うのは、強者の意見であって、そうやってでもお金が必要な人、理解を支えるベースになる教養がなくて説明をあまり理解せずに引き受けてしまう人、ボランティアだとしても、人間関係の中で弱者にしわ寄せが行く(周囲から、子供の産めない姉妹の代わりに産めと圧力かけられるとか)でしょう。
健康被害が全くなくても、自分が産んだ子供を手放した喪失感と折り合いをつけなきゃならないのは、精神的負担が重すぎると思います。


そもそも、生殖技術を使って生まれた人たちがどう思っているのかが、一番大事だってことを気付かせてくれた本でした。
親は、不妊でどんなに悩み苦しんだとしても、どこまで治療を受けるか、子供をあきらめたり、養子をもらう方法も選択できた中で決めたことだから、結果を引き受けるのが当然です。
結果を引き受けられない人は選択をしてはいけないと思います。

子供は、自分が選んだことじゃないのに、大きな荷物を背負わされるって、おかしい。
AIDで生まれた人が、「親は先に死ぬから、”生まれた子どもの一生をケアして、責任を取る”ことも出来ない・・・産みっぱなし」と言っていたのが響きました。

現実には、技術が先行して、色々な方法で子供たちが生まれています。
これを禁止しても、水面下に潜るだけで意味がないから、それならルールを作る、治療を望むカップルには、技術を使って生まれた子どもたちの意見も含めて学んでもらい、考えたうえで決めるシステムを作る・・・などする方が現実的だ、という意見にも反対は出来ません。

でも、私は自分が「体外受精で生まれた(遺伝子は両親から)」のだったとしても、正直、すごく違和感があります。まして、遺伝上の親が違っていたら、違和感、不快感、自分の存在への不信感は半端ないと想像できます。
だから、「自分が嫌なことは他人にはしない」という意味で、AIDなど、第三者生殖細胞を使ったり、子宮を借りたりして子供を作るのには反対です。
この本を読んで、そう思いました。
自分の根本を揺るがす現実は、カウンセリングだとか、オープンしておおらかに受け入れる社会になったからと言って、すんなり受け入れられることではないと思います。
・・・・・子供が全員生殖技術を使って生まれ、遺伝上の両親を知らないのが当たり前の社会になれば別でしょうけど。

それぞれの立場で、それぞれの意見があるのは当然なので、生まれてきた子供たち、生殖細胞の提供者の子供も含めた家族など、広い意味での当事者の意見も大事にした議論が必要だと思いました。