シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

罪悪感に宛てる言葉

信田さんの本を読んで、また親のことを考えていました。
親のことは何かにつけて頭をよぎります。
 
一番の原因は、「親が衰えたときに助けなくてはいけなくなるんじゃないか」という不安です。
周囲の声は無視出来ても、自分の中の罪悪感や居心地の悪さはどうしようもありません。
今の親から離れるのは平気ですが、弱って助けを求めている人を見捨てるのは人としていかがなものか、という思いは残っています。
 
 
では、彼らはどうして来たのか。
このブログでは何度も書いてきたことですが、
 
20年ほど前、私が仕事のストレス(今思えば、ACな自分が自分を追い込んでいただけなのですが)で体調を崩して、親に助けを求めたとき、彼らがどうしたか。
よく話も聞かずに、「仕事にストレスはつきもの。情けない。お父さんは何十年もがんばってきた。誰でもそういう時期はある。全くお前は弱いんだから!」と体調を崩したことを責めて、見捨てただけでした。
 
ここ5~6年は微熱や体のだるさなどで動けなくなることもあって、原因も分からず、自分でも鬱々とした日々もありました。
これも、「旅行に行く元気くらいはあるんだろう」と体調不良を否定してみたり、
あざ笑うだけで、優しい言葉の一つもなければ、(愚痴を聞きたくないなら)そっと聞き流す気遣いもなし。
 
義母が亡くなり、夫実家が大変だと初めて知ったあとは、それまでは時々は夫実家に連絡して交流を深めろだの干渉していたし、夫実家の安否を聞いたりしていたのに、一切触れなくなりました。
火の粉が降りかかるのが嫌なのでしょう。
 
 
こういう歴史を振り返ると、親が弱ってどうなろうと、助ける理由はない気がしてきます。
私はずっと見捨てられてきたのだから。
義母が亡くなった時、「夫実家が大変だから、あなたたちの面倒は見れない。ある日起きたら呆けてました、ってことはないんだから、自分でちゃんと準備してね。」ときっちり宣言してあります。
 
それに、親が私に使ってきた理論を使えば、
 
高齢になれば、心身弱ったり、呆けるかもしれないと分かっているのだから、ちゃんと準備するのが当然。助けが必要になるはずがない。
(助けを求めるっていうのは、予防・準備不足と自分の弱さ・甘えが原因=自業自得なのだから、私が助ける理由はない)
 
                                            ということになるんです。
 
実際に、少数ではありますが、自分のことをちゃんと始末して、「立つ鳥跡を濁さず」で人生締めくくる方もいらっしゃるわけで、「不可能」ではないですし。
 
 
親はずっと私を見捨ててきたのだから、助ける義理はない。
加害者にも支援は必要だが、それは被害者の仕事ではない。
同情心から接触すれば、また酷薄な扱いを受けて深く傷つき、鬱がぶり返すだけ。
 
    弱った親を見捨てる罪悪感が湧いてきたら、いつもこの言葉を繰り返しています。