仏教の経典に、
「(徳を積まずに)年を取っただけの人は、虚しい老人と言われる」 とありました。
電車待ちの列に割り込んだり、自分が威張るために説教垂れるじいさんはこれだ。
電車の席取りダッシュするのは男女差ないし、集団で暴走するのはおばさんが多いけど、一人で堂々と列に割り込むのは爺さんが圧倒的に多い、というのが夫と私の共通見解。
職場で困ったチャン扱いになってしまったうまの合わない同僚を見ても、
以前は、「夫婦で意見をすり合わせてから子供たちに言う。でないと、子供同士の仲もかき混ぜてしまうから。」と言っていた母親が、軽蔑していた姑と同じく、自分に有利なように、子どもたちそれぞれに違うことを言って回るようになったのを見ても、
これが”老醜”なのか・・・と寂しくなります。
これって、どうやれば防げるんでしょう?
知らないうちに鼻つまみ者になっていたり、軽蔑されたり、憐れまれているって哀しい。
自分がずっと体調が悪い時期を思うと分かるのですが、衰えると、
思考は空転し、
周囲が見えなくなり、自分の欲望実現ばかり優先してしまう(生存優先)
一日に処理できることは減る一方
こんなはずじゃないと苛立ち、八つ当たりまで(--;
これが定常状態になると、「虚しい老人」へ一直線なのかな。
年とを取れば、作業や思考がゆっくりになるのは仕方ない。
老眼になれば、細かい字をぱっと読んで、さっと動くのも難しくなる。
でも、これをカバーするものがあるんじゃない?
結局は「人柄」。自分の同僚を考えるとき、自分の負担が多少多くなっても、まぁいいかな、と思えるのは、温かい人柄の相手に限られます。
自分が見えなくなるのが老醜だから、予防には、自分の立ち位置の確認を怠らないこと。
周りの人たちと比べて、仕事が遅くなったな~とか、
以前のように、長時間○○できなくなったな~とか、衰えを認めること。
そうすれば、謙虚さも出てくると思います。
私は衰えに甘える人は嫌いだけど、謙虚な人は好感持てます。
自覚があれば、工夫や周囲への相談も出来るし。
人格でカバー出来ればベスト。
衰えても、「時間はかかるけど、この作業はあの人に任せておけば確実」という 信頼感があると違う気がする。
簡単に他人を裁かないとか、目配りが出来て”いっしょにやりましょう”があれば違 うし。
衰えをカバーするのは、徳や知恵、謙虚ってことになるんでしょうね。
そう思うと、別に「年を取って衰えたから」じゃなくて、いつでもあてはまることですね。
じゃあ、「徳を積みましょう」ってことになるのですが、これがなかなか・・・。
出来ることからやっていきたいです。
これは、「嫌われないため」じゃなくて、「心安らかな日々」につながることですから。