シンプルライフへの遠い道

心穏やかな暮らしを目指して奮闘中

死の瞑想

先日読んだ本に載っていました。専門家の助けなしにはしないように、と注意書きがありましたが、自己責任でやってみました。
 
相手の臨終の場を想像してみる、というもの。
 
父親については、言うことがありませんでした。
言葉が通じないので、何も言う気がしませんでした。
 
父親が亡くなっても、父方の祖父の葬儀で思ったように、
 「私には最後まで、あなたが、どういう人生を、どういう思いで生きてきたのか、その殆どを理解できなかったし、共有できるものもありませんでした。
あなたは永遠に私にとって分からないままの存在なのでしょうね。」
                                           とでも思うのかな・・・。
 
父親は、価値観が違うとか、向うは上から目線で私の話を聞く気がないとか、そういうことの前に、通じ合うツールがないのです。
 
「悲しい」という言葉でイメージする感情が互いに違う。
「みかん」と聞いて思い浮かべる味が互いに違う。
「赤」で浮かぶ色が違う。
      私は「違っている、感覚を共有できていないこと」は知っているけれど、
      父親は、同じ感覚を私が持っているという前提で話している。そんな感じです。
 
通じる言葉や感覚がないので、父親とコミュニケーションをとるのは、
「あの星と話し合ってみよう。いつかきっと分かり合えるから。」
と同じなのです。
 
動物や植物でも、互いにじっくり時間をかけて、ゆっくり向き合えば、互いのルールのほんの一部は分かるかもしれない。
でも、父親とはその程度の「分かりあえた感覚」も持てません。
 
 
 
母親は、とりあえず言葉は通じます。感覚の多くは共有できませんけど。
なので、母親相手の「死の瞑想」は今回は控えました。
多分、ありがとうの気持ちと、どうしてあなたはこうなのですか?という気持ちの両方に圧倒されるんだろうな~と想像しています。