シンプルライフへの遠い道

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奪われた感覚

先日読んだ信田さよ子さんの本に痛みについてのくだりがありました。
たとえば転んで足を擦りむいたときに、「痛いの、痛いの、飛んで行け~。」と親にフォローしてもらえたら、「転んで痛い」と認識した上で、痛みは時期に消えていくことも体験できる。
 
でも、「そんなの痛くない」とか、「痛くないから泣くんじゃない」とか、痛みを否定されて育つと、痛みを痛みとして感じることができなくなる。(痛みを奪われる)
 
親が感じさせたくない感覚は奪われ、親が感じさせたいように子どもは感じ、結果として子どもの痛みは消失する。
・・・中略・・・
その人たちはカウンセリングにやってきて、「つらい」とか「いやだ」と感じてもいいのでしょうか。指を骨折したんですが「痛い」って言っていいんでしょうか、と語るのだ。
 
 
おそらく、スムーズに痛みや辛いという感覚を身に付けている人には、さっぱり理解できないでしょう。
実際に痛いのに、辛いのに、「・・・と感じでもいいのでしょうか?」って、どういう感覚で言ってるの?と思うでしょう。
 
でも、痛み、辛さ、寂しさ、誰かに頼りたい感じ・・・そういう感情を出すことを禁じられたり、
感情を出した時に無視されて、その感情は存在しないかのように扱われて育つと、
自分の感覚とのつながりをなくしてしまうのです。
 
分かりやすいのは体調が悪い時。
熱もせいぜい微熱程度で、他の症状もないけど、体が辛くて動けないときもある。
こういう時、「熱が何度」とか、「咳がひどい」「鼻水が止まらない」などの外から見える症状がないと、「体調が悪いから休む」ことが許されない気がしていました。
「自分がしんどいから休む」でいいのに、休む許可がこの世界から下りない気がしていました。
そもそも、休むかどうかを決めるのは自分で、許可などいらないのですが、そういう発想にすら辿り着いていませんでした。
 
これも親が面倒なことは「ないこと」にしてしまったから。
私がしんどいかや、心細いかなどは全くの考慮外で、
熱があるとか、大量出血しているとか、「自分のことをいい親だと思いたい彼らには無視できない事実(無視すれば、ひどい親になってしまう状態)」を提示しない限り、対応してもらえなかった。
(今思えば、本当にやさしく心配してもらったことなどない気がする。単に、手のかかる面倒な状態が早く終わればいいのにという視点で、様子を気にされていただけじゃないか、と思います
さすがにこれは言いすぎでしょうが・・・・でも、私が感覚を失うほど、私の気持ちは無視されてきたことだけは事実です。)
 
私は何とか感覚を取り戻すためのリハビリ状態に入れましたが、
親のこの態度は今も続いています。