心の傷を癒すには、喪ったことをみとめ、十分に嘆くことなのですが、
私の中にそれを妨げているものがあります。
そういうものを求めていた自分の方がちょっとずれているのかも? という疑念を
いつまでも払拭できないのです。
親が嘘をついても謝りもせず、開き直って笑って誤魔化したこと
は、どう考えても親がおかしい!と分かります。
このとき、文句も言えなかった自分・・・
言っても、くだらないことにこだわるなとか、
わがままだとか言われるだけで、
(約束を破ったことを謝って欲しいと言うのがどうしてわがままなのか筋が通りません が、私の家では、親を困らせる=わがままなのです)
ろくなことにはならないと分かっていたので、ぐっと我慢して、
哀しい気持ちになっていました。
こういうことは、自分は憤った。私は哀しかった、と認めやすいです。
怪我をしたら、せめて優しい言葉をかけてもらいたかったのに、
「薬を塗っておけば治る」で終わりだったことや、
高熱で病院に行く時は親についてきてもらいたかったのに、
「一人で行ってきなさい」と突き放されたことなどは、
確かに、あの時とっても哀しかったし、
寄る辺を失ったような(もともとなかったのですが((ToT))気持ちで、
不安や頼りなさに一人で一人で耐えて苦しかったです。
確かに、あの時、もっと優しくしてもらいたかったし、思いやりを持って接して欲しかったです。
でも、確信が持てないのです。
「こういうとき、一般に、労わりやさしさを要求する権利があるのかな?」 って。
ろくに夕食も作ってもらえず、小銭を渡される日の方が多かった・・・のなら、それは酷い!と
私にも分かります。
でも、「親は私のパジャマに毎日アイロンをかけてくれませんでした。私はそれが悲しかったのです。」と言われても、ちょっとね・・・と思ってしまいます。
他の家族全員のパジャマにはアイロンをかけるのに、この人だけ放置されていたのなら、虐待ですが。
私は、この「パジャマにアイロン」と同じようなことを求めている勘違いさんなのかな?
それなら、確かにあの時の私が悲しかったり苦しかったりしたのは事実だけど、
私の要求基準にも問題があったのかしら?
と、自信がないのです。
これには、「自分にとって自然な要求でも、表に出したら否定されて、余計哀しい思いをするんじゃないか?」という不安や心配もあります。
自分は正当な要求すら拒絶される存在でしかないと思い知るより、
「自分の基準がおかしいから仕方ない」にしておいた方がましなのです。
子供にとって、正しいはずの親が、「お前の要求がおかしいから、私達は応じる必要はないのだよ」という態度でいれば、子供は「自分が悪いのだ。自分の要求が間違っている」と思うしかありません。
理性では、私の望みはもっともなものだ、と分かっています。
パート先の薬局に来る人を見ていても、高熱を出したり、体調が悪くてぐったりしている時は、中高生でも保護者が付き添っています。(大人でも付き添いがいる場合も多いです)
小さい子供なら、ちょっと転んだだけでも、優しく抱き起こしてもらいたいものなんだな・・・と、
その辺の公園にいるちいさな子供たちを見ていても分かります。
でも、こういう情報が、
「私が労わりやさしさを求めること(求めていたこと)は至極もっともで、
子供時代なら”親に対して求める権利があったものだ”という確信」
に繋がっていかないのです。
生まれたときから、私自身の自然な要求や気持ちは否定され続けてきた証拠でもあるのですが・・・
人は優しくされたい。
自分も、やさしくされたいという気持ちを持ったり、
希望を表に出したりする権利がある・・・
そう思えるようになることが今の私には必要です。